昨日(19日)発売の週刊文春。小林信彦の連載エッセイ「本音を申せば」で「これでいいのだ! 映画☆赤塚不二夫」を取り上げていた。堀北真希が編集者役なのだから当然観るだろう。

 エッセイの中で、赤塚不二夫には一度だけ会ったことがあると書いている。ああ、あのときだなと思う。長谷邦夫「漫画に愛を叫んだ男たち」(清流出版)で知ったエピソードだ。
 赤塚不二夫責任編集と銘打たれた雑誌(実際私財が投入されている)「まんがNO.1」の創刊記念パーティーのときのこと。来賓の一人小林信彦は、編集長の長谷邦夫になぜ表紙が横尾忠則のイラストなのかと疑問を呈す。そんなのダメだ、すぐに赤塚さんのマンガにすべきだ、とアドバイスするのだが、このときの長谷邦夫にはその意図がわからない。人気のイラストレーターを起用しているのに、何を言っているんだこの人は、的なあまりいい印象を持たなかったらしい。

 真意がわかるのは創刊号が発売された後のこと。衝撃の事実に打ちのめされる。雑誌が売れない! 内容には自信を持っている長谷邦夫は書店に状況を確認しに行く。な、なんと書店サイドが「まんがNO.1」に対する認識が全然ないのである。あの赤塚不二夫の雑誌なんてわからないから、マンガの棚に並べない。並べるどころか、ヘンな雑誌じゃないかとそのまま返品してしまう始末。これでは売れない。表紙に赤塚不二夫のマンガがあればと嘆いても後の祭り。そんなこんなで、結局雑誌はすぐに休刊になってしまった。
 表紙が雑誌の命であることは「まぐま」編集で身にしみている。内容については目次を見るからなんていう考えは甘いのだ。

 当時「まんがNO.1」の実物を見たことはなかった。いや一度くらいは書店で手に取ったのかな。なんとなくうっすらとああこれが!と思ったことを記憶しているので。
 ずいぶん後になって知るのだが、「まんがNO.1」は、井上陽水の「桜三月散歩道」を生んだ雑誌だった。付録にこの曲が収録されたソノシートがついたのだ。語りの部分が別の人、内容も東京の、葛飾柴又近辺の情景だった。YouTubeで聴いたのだが。

 赤塚不二夫について書かれた本で印象深かったのが「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(武居俊樹/文藝春秋→文春文庫)。少年サンデーで赤塚不二夫の担当だった編集者が書いた本である。
 夕景工房にレビューを書いた。

     ▽

2005/12/07

 「赤塚不二夫のことを書いたのだ!!」(武居俊樹/文藝春秋)

 草野球チーム〈L.J.バスターズ〉のライパチくんとして、チームの勝利に負の貢献をしていた頃。もう5、6年前、いやもっと前か。
 チームが参加していた新宿大会の公式戦のグラウンドが大久保と落合にあった。
 落合のグラウンドに行くたびに思った。赤塚不二夫が歩いてないかな。見かけたらぜったい声かけるのに。確かフジオ・プロは落合にあったはずで、いろいろ話したかった。とてもフランクに応えてくれたと思うのだ。
 赤塚不二夫が何冊も上梓した自叙伝やら人生相談やら、マンガではない本を図書館で見つけるたびに借りてきていた。自叙伝「笑わずに生きるなんて」は文庫本を学生時代に購入している。赤塚本のファンだった。

 最初の出会いはTVアニメ「おそ松くん」。初めて雑誌で読んだ「おそ松くん」は長編だった。イヤミが主人公で目の見えない女の子を助け、手術代を稼ぐために悪戦苦闘する物語。ラストが感動的で、後年、チャップリンの「街の灯」を観た時、「赤塚不二夫のマンガの真似している!」と叫んでしまった。
 少年マガジンで連載が始まった「天才バカボン」に笑い転げた。「都の西北早稲田のとなり♪」は本当にバカ田大学の歌だとと信じていた。「もーれつア太郎」が大ブームになった時は、毎日ノートにニャロメやケムンパス、ココロのボスのマンガを描いていたっけ。
 週刊文春を愛読するようになってからは「赤塚不二夫のギャグゲリラ」を毎週楽しみにしていた。コミックスを収集することはなかったが、赤塚マンガはいつもそこにあったのだ。

 アルコール中毒、癌。さまざまな病気が赤塚不二夫を襲っていたことは知っていた。現役から半ば引退しながら下落合近辺できままに過ごしているのだろうと思っていた。数年前に脳内出血で倒れ、一命はとりとめたものの、その後意識が戻らないということを知ったのはいつだったか。ショックだった。

 少年サンデーの編集者として長年赤塚不二夫を担当した著者が初めての出会いから現在までの足跡をまとめたのが本書である。
「新人漫画家なんて編集者次第で生きも死にもする。才能なんて本人には判っていない。……極端にいえば作家は読者よりも担当編集者に向けて作品描いているんだ」
「ずっと馬鹿でいなよ。りこうになりそうになったら、〈お○○こ〉と108回叫べ」
 珠玉の言葉がいろいろ出てくる。
 天才漫画家に惚れこみウン十年。うなずけないことも多々あるけれど赤塚不二夫への愛(尊敬)にあふれていることは確かだ。

 著者についてはかつて「レッツラゴン」に登場する編集者〈武居記者〉としてお馴染みだ。「レッツラゴン」は赤塚不二夫がアメリカ渡航後に描いたまさに画期的なギャグマンガ。ペンネームを山田一郎に変えたのもこの頃だ。ギャグの一つと思っていたら本気なので驚いた。赤塚不二夫の変貌を目の当たりにした。

 思えば漫画家が自分のプロダクションを持ってマンガを描くことを知ったのがフジオ・プロだった(後に川崎のぼるとカワサキプロ、永井豪とダイナミックプロを知る。手塚治虫や石森章太郎、藤子不二雄はプロダクション制をとっていたがトビラにクレジットしなかった)。

 黄金期のフジオ・プロのマンガ製作工程を知ることができることも本書を読む価値がある。
 さいとうたかをを別にして、普通漫画家はストーりー、下書きまで自らの手で行なう。赤塚不二夫はアイディアから協議制なのだ。昔から知ってはいたが、手順が具体的に描写されているので、夢中になった。長谷邦夫、古谷光敏、高井研一郎、それに担当の著者が加わってのアイディア会議。
 「ギャグゲリラ」のふきだしネームの手書き文字が長年の片腕長谷邦夫の手によると知って衝撃。ずっと本人のものだと思っていた。

 全然関係ないけど長谷邦夫は僕の愛唱歌「桜三月散歩道」(by 井上陽水)の作詞家である。
 本書では赤塚不二夫の文章における裏方とも書かれていた。赤塚本のゴーストライターだったのだろうか。
 こうなりゃ長谷邦夫が赤塚不二夫との決別を宣言した「漫画に愛を叫んだ男たち」を読むしかない。

     △


 この項続く




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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