承前

 最終作「ゴジラ FINAL WARS」(2004年)は一種のお祭り、バカ映画だった。制作費20億円が無駄に消費されたという思いが強い。

 ミレニアムシリーズも平成シリーズ同様1954年の「ゴジラ」の直接の続編という体裁をとっており、「ゴジラの逆襲」から「メカゴジラの逆襲」までの世界観は〈なかった〉ことになっている(作品によっては「モスラ」や「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ゴジラ」等の世界観を共有するものもあるが)。

 にもかかわらず、その〈なかった〉ことになっている世界に存在するアンギラス、エビラ、クモンガ、ヘドラ、ガイガン等々が登場し、その中にミニラもいるのだ。しかもこのミニラ、最初は人間大の大きさで登場して最後に何の説明もなく巨大化してしまうのだから、この映画の立ち位置がわかるというものだ。
 東宝チャンピオン祭り時代のゴジラ映画を観て育った監督が好きなように作ったという映画である。この手の異色作を否定するつもりはない。しかし、これを50周年記念、シリーズ最終作として制作してしまうところが問題なのである。

 平成ゴジラシリーズ、ミレニアムシリーズがストーリー的、ドラマ的に袋小路に陥ったのは、監督やシナリオライターに要因があったと思えてならない。
 監督には原則東宝社員を起用する。東宝映画の作品なのだから、それも年間の制作本数が極端に少ないのだから社内のスタッフを起用するのは当然の帰結なのかもしれないが、作品的に向き不向きというものがあるだろう。
 これは84年版「ゴジラ」の監督起用で明らかだろう。

 シナリオも特定のライターに偏っている。さして面白くないにもかかわらず、毎回起用されるのはどういう理由によるのだろうか。内容よりも興行収入(観客動員数)が評価されるのだろう。「vsキングギドラ」「vsモスラ」の大ヒットが後のシリーズに及ぼした影響はとてつもなく大きい。
  平成ガメラ、平成ウルトラマン、平成仮面ライダーのシリーズではけっこう人材の交流があったはずだが。
 そういえば、その昔のクレージー映画は、クレージーのTV番組や作詞で活躍している放送作家を絶対スタッフに活用しなかったと読んだことがある。ある種の壁があったらしい。
 「大怪獣総攻撃」や「FINAL WARS」のスタッフ起用が特殊だったことがわかる。

 結局のところ、真のプロデューサーがいなかったというのが84年版「ゴジラ」から始まる平成ゴジラシリーズ(&ミレニアムシリーズ)の悲劇なのかもしれない。
 84年版「ゴジラ」では、古い船はもちろんのこと、なおさらのこと新しい船を動かせるのは古い水夫でないことがわかった。その後を継いだ水夫は新しいことは新しいけれど、古い水夫の教えをそのまま守り抜いたということか。




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Author:kei
新井啓介
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まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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