前説なしです。
 二三は〈に、さん〉と読みます。〈にじゅうさん〉ではありません。それを書くなら二十三ですから!
 それから、東芝EMIはEMI Music Japanになって、今はユニバーサルミュージックっていうんですね。

          * * *

 赤い鳥は、後藤さんが、高校の同級生だった平山さんと一九六七年から兵庫県尼崎市で毎月一回定期的に開催していた〈赤い屋根の家コンサート〉から誕生した。一九六八年のことだった。

 コンサートでは当初、後藤さんと平山さんが〈後藤悦治郎&平山泰代〉の名称で一緒に歌っていた。レパートリーは「竹田の子守唄」等の日本の伝承歌ばかり。その後、後藤さんが男女混声のグループを結成しようとメンバーを集めた。高校1年時にカルチャーショックを受けたPPM(ピーター・ポール&マリー)のハーモニーを再現するためのグループである。
 マリーの迫力ある声に対抗するために平山さんのほかにもう一人女性を入れてユニゾンで歌わせる。ハーモニーをつけるのは男性陣。そこで当時谷村新司氏のグループにいた新居さんを引き抜いた。一緒についてきたのが同じグループにいて新居さんのヴォーカルに惚れ込んでいた山本さんだった。

 当初のメンバーは後藤悦治郎、平山泰代、新居潤子、山本俊彦そして松田幸一(現ハーモニカ、パーカッション奏者)の五人。
 グループ名は鈴木三重吉の童話雑誌「赤い鳥」からとられたということが一般的に知られているが、最初はいくつか候補があって、どうしようか悩んでいた後藤さんがある時街の赤い電話を見てひらめいたのが〈赤い鳥〉だったという。童話雑誌との関係はあとづけらしい。

 一九六九年、ベース担当の松田氏が脱退すると、グループの活動を知り、会社員を辞めて大川さんが参加した。
 この加入は赤い鳥にとって大きな意味を持つのではないかと思う。その後のオリジナル曲において、山本さんとのコンビで後藤さんの世界とは違うもうひとつの赤い鳥の世界を作りだすことに成功している。
 ヴィジュアル面から見ても各人が個性的である。タヌキ顔美人でいつも笑顔の平山さん、キツネ顔美人でちょっとすました新居さんの女性陣。中肉細身の少々神経質そうな後藤さんに中肉中背のどこか一本気な山本さんの男性陣。二組のカップルを暖かくすっぽり包み込むような思慮深そうで大柄の大川さんというような。

 五人がそれぞれ楽器を弾けるのもいい。

  後藤悦治郎(ギター)
  平山 泰代(ピアノ)
  新居 潤子(ギター)
  山本 俊彦(ギター)
  大川  茂(ベース)

 各人がシンガーで、おまけにソングライターなのである。さらにコーラスも申し分ない。まさにパーフェクトなグループではないか!

 後藤さんは京都外国語大学時代に〈フーツ・エミール〉というPPMのコピーグループを結成している。女性二人、男性二人の、赤い鳥のプロトタイプともいえるグループで、一九六六年の七月二十四日、湘南の逗子海岸で開催された〈コロムビア・フォークソング・フェスティバル〉で2位を獲得。3位は吉田拓郎だった。
 赤い鳥はアマチュア時代にURC(アングラ・レコード・クラブ)からシングル「お父帰れや/竹田の子守唄」をリリースしている。また、各地の伝承歌を独自のアレンジで演奏、紹介するラジオ番組を持っていた。

 一九六九年、赤い鳥は〈ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト〉でグランプリを受賞。この時の2位は三人組のオフコースである。
 実はこのコンテスト、赤い鳥は関西四国地区の予選で一度落選しているという。関西地区の予選にぶっちぎりの成績で優勝したメンバーが、余裕もあってか、あまり慣れていない新機軸の曲(「赤い花白い花」をボサノヴァで)に挑戦したのが原因だった。ところが彼らの実力を知っている審査委員長の特別の計らいがあって、審査員推薦という形で全国大会に出場したのだ。

 グランプリ受賞の褒美であるヨーロッパ旅行の途中、ロンドンで記念のレコーディング。この時はプロになるつもりはなかったが、彼らの音楽性に惚れ込んだ村井邦彦氏が説得する。それでも首を縦にふらないメンバーに、「五人のうち三人がプロになりたいと思ったら」という条件つきで目をつむって手をあげさせた。目をつむったメンバーに「はい、三人手をあげた」との声。それでプロへの転向が決まった。実際誰が手をあげたかは確認していないらしい。

 一九七〇年六月、シングル「人生」でデビュー。
  「人生」は「竹田の子守唄」のメロディに山上路夫氏が別の詞をつけたものである。
 なぜ、そんなことをしたのかわからない。グランプリを受賞したコンテストで赤い鳥はゴスペル「COME AND GO WITH ME」と「竹田の子守唄」を歌った。審査員はそれまで聴いたことがなかった「竹田の子守唄」に衝撃を受けたといわれる。村井氏も会場にいたはずで「竹田の子守唄」の素晴らしさを理解しているはずなのだ。なぜ「竹田の子守唄」ではいけなかったのか。

 ロンドン録音のアルバムは「Fly With The Redbirds」のタイトルでコロムビアレコードからリリースされる。
 12曲中日本語の歌は2曲のみ。前述の「人生」と「黒い雨」なのだが、この曲が選曲された理由もわからない。しゃれたポップスの中にあって、重たいテーマを持つこの2曲が浮いているように感じるのだが。

 とにかく赤い鳥はアマチュア時代のようなフォークグループではなく、海外の歌を洗練されたハーモニーで、それも英語の歌詞のまま聴かせるポップス(コーラス)グループとして登場したのである。

 同年九月コロムビアから東芝EMI(当時は東芝音楽工業、現EMI Music Japan)に移籍し、シングル「誰のために」をリリース。ここでやっと赤い鳥らしさがでてきたのではないかと思う。
 そして十月、〈合歓ポピュラー・ソング・フェスティバル〉に参加、山上路夫作詞・村井邦彦作曲の黄金コンビによる「翼をください」を歌い、新人賞を獲得した。村井氏が「翼をください」を赤い鳥のところに届けたのが演奏当日だったというから驚く。

 七一年二月シングル「竹田の子守唄/翼をください」をリリース、大ヒットとなって赤い鳥の名を全国に知らしめた。
 セカンドアルバム「赤い鳥」も全13曲のうち日本語の歌は「誰のために」「希望」「小さな歴史」の3曲のみ。他はビートルズ、バカラック、サイモン&ガーファンクルなどのカバー曲で構成されている。
 サードアルバム「What a beautiful world」はまた全曲英語である。
 確かにどの歌もさすが赤い鳥といった感じだ。聴いていて心地よい。でもどうして? という気がしないでもない。海外のマーケットを意識した作り方なのだろうが、赤い鳥の歌唱力、コーラスワーク、センスの良さを誇示するだけのアルバムという印象を受ける。

 デビュー当時の赤い鳥の状況を示す格好の資料がある。「What a beautiful world」のライナーノーツだ。

     ▽
 世界各国からアーティストが参加した日本初の国際歌謡音楽祭は昭和45年11月、東京で開かれました。国際歌謡音楽祭と銘うつくらいで、それこそ、お国柄豊かないろいろな種類の曲、いろいろなタイプのアーティストが登場しました。サンレモ音楽祭に並ぶイタリアの曲のようなもの、日本語の台詞まで入れた全く歌謡曲風のもの、いわゆるロックンロールなどです。しかし、このお祭りのステージに登場したアーティストの中で最もアップ・トゥ・デイトな、最も会場を沸かせたアーティストは、実はカーペンターズと、赤い鳥でした。(略)
 昭和45年の日本のポピュラー・レコード界の収穫は赤い鳥です。その音楽性、選曲、キャラクター全てが国際級であり、事実、すでに海外でも、その力は認められている赤い鳥なのです。(略)
 赤い鳥は、この世界では型破りな、言わば、革新的なグループです。最初のレコードからロンドンで製作され、イギリスの一流ライターのオリジナルを歌い、シングルレコードの大ヒットの前にLPのヒットを出すなど、数えれば記録的なことばかりです。また、これだけの革新的な行動、飛躍的な実績を生めるだけのラッキーなグループでした。
 雲霞のごとく発生した関西のフォーク・ソング・グループの間で、まだ、結成されて日も浅いにもかかわらず、44年ヤマハ・ライト・ミュージックコンテストに優勝したのが始まりでした。引く手あまた! レコード会社、芸能プロダクションの誘いを振り切り、逃げ切って、これまた設立したばかりのアルファ・ミュージックと契約したのです。フォーク・ソング・グループ特有の自分達の音楽的理想もありました。赤い鳥を引きつけたものは、作曲家村井邦彦を中心とした新進アルファ・ミュージックの音楽的な傾向と古い枠を知らない若さだったと言います。(後略)
     △

 日本のフォーク史が語られる時、必ず関西フォークが話題になる。
 関西フォークの特徴は高石友也や岡林信康に代表されるように、その歌の持つメッセージ、テーマが重要な要素を占めた。
 たぶん赤い鳥もアマチュア時代はそんな雰囲気を持ち合わせていたと思う。「竹田の子守唄」を歌い、特に伝承歌の採譜にも取り組んでいたリーダー・後藤さんの資質は関西フォークそのもの。土臭く、きまじめなものだったと想像できる。「お父帰れや」などその流れとしか考えられない。

 ところが、フォークの世界では珍しくコーラスワークが抜群にうまかった。土着性の強い伝承歌も彼らの手にかかると洗練された編曲とハーモニーで聴く人を魅了したに違いない。
 プロデューサー村井邦彦氏は赤い鳥をデビューさせるにあたって、そこをよりアピールする必要があったのではないか。
だからまず海外のポップスを歌わせること、それも日本語のカバーではなく、あくまでも英語のまま歌わせることによってコーラスグループとしての赤い鳥を一般に認識させ、そこから山上・村井コンビのオリジナルで勝負するという計画だ。

 フォーク史の中で登場する関西フォークというくくりに赤い鳥が含まれないのは以上の理由だと勝手に推測している。
 赤い鳥はその志よりスタイルで語られてしまうのである。リーダー・後藤さんのプロデビュー最初の誤算はそこではないか。

 僕は赤い鳥のデビューの頃をリアルタイムで知らない。洋楽をカバーする赤い鳥を面白くないというのは、その後のオリジナルを歌う活動を知っている僕個人の勝手な思い込みかもしれない。
 当時の音楽ファンは、あるいはそれまでになかったまったく新しいポップスグループの誕生を大きな期待と拍手をもって歓迎したのかもしれないのである。
 もしそうだったとしても、そんな風潮を打破したかったのは赤い鳥のメンバー自身だったに違いない。彼らはフォークソングを歌い、シンガー・ソングライターを目指していたはずなのだから。

 初のオリジナルアルバムといえる「竹田の子守唄」のリリースは七一年七月。同時に「翼をください」と並ぶ山上・村井コンビの名曲「忘れていた朝」をシングルとしてリリース。
 十月には再びポピュラー・ソング・フェスティバルに参加する。「窓に明りがともる時」を歌い川上賞を受賞。村井氏は作曲賞を獲得した。
 十一月にはこの曲で〈第2回世界歌謡祭〉に出場した。
 村井氏の思惑どおりの向うところ敵なしというような赤い鳥の活躍ぶりがうかがえる。
 こうして赤い鳥はコンサートで日本各地を旅する毎日を送るようになるのである。

 オリジナルアルバムといっても「竹田の子守唄」におけるメンバーのオリジナルは4曲のみだった。この時期、五人はプロの作家になるための修行中といったところだろうか。
 このアルバムから〈赤い鳥新聞〉を発行し始めたのは注目に値する。
 五人のアルバムに関する感想や生活雑感、お薦めのレコード・書籍など、それぞれのキャラクターが際立った文章が掲載されたこのレポートは赤い鳥独自の活動といえる。赤い鳥が目指すところの〈音楽をとおしての文化活動〉の一つといえるのではないか。

 〈赤い鳥新聞〉第2号(「スタジオ・ライブ」所収)の新居さんのレポートが先ほどのぼくの疑問に答えてくれている。

     ▽
 今年もあとわずかで終わり。赤い鳥にとって転機となった年です。なんといっても歌う音楽が変わった。変わったというよりも、自分達のオリジナルを書くようになり、少なくとも与えられたものよりは、少々ざつでも満足して歌えるようになって来た。自己主張するようになったのです。赤い鳥がオリジナルを発表して歌うなんて、みなさん信じられなかったでしょう。なにしろ日本のフィフス・ディメンションだったものね。
 赤い鳥は非常に考え深いです。音にしても詞にしても。オリジナルを発表する時はいつもmeetingなんてものを開きまして、岡本さんという私達の先生みたいな人を中心に、一人一人のオリジナルを批評し合うのです。(中略)
 わらべ唄や民謡(日本のもの)にしても、私どものリーダー(後藤さま)なんてアマチュアの時から地方を旅して、めずらしい民謡を集めてきます。だれかがそういう活動をしないと、日本の美しい歌は埋もれて、顔を出せないようになるからです。(後略)
     △

 リーダー・後藤さんは同じ号にこう書いている。

     ▽
 「五木の子守唄」や「竹田の子守唄」は真に理解されないまま、伝承されずに終わる運命にあるのかなと思ってしまうのです。子守唄はきれいごとではすまされない、エネルギーと怒りと悲しみと、土の臭いが迫ってくる、とても人間性豊かな正直なフォーク・ソングです。
 大阪を離れ東京に住む私は、まだまだ自分というものの所在がみつからないのです。詞を書いてはいきづまり、ウソを書いてしまうのです。私が私のオリジナリティーを表現できるようになるまでは、なんとしても、私たちの両親か、その前の何百年、何千年と生きついできた日本人の心を知らねばならないと思うのです。彼らが追いつめられて立たされた河岸のくずれかけた、ドテの上に私も立ってみなければいけないのです。
 だから私は今、私のまわりにある日本人の宝である伝承歌を、私のもとにまで引き戻そうとしているのです。
     △

 後藤さんは高校時代の友人・橋本正樹氏とともに「竹田の子守唄」のルーツを求め、その本質に迫る「竹田の子守唄」という本を出版している(結果的には橋本氏の自費出版になるのだが)。後にこの本が永六輔氏に感銘を与えることになる。雑誌の発行も計画している。
 歌による文化活動という赤い鳥の理念はたぶんに後藤さんの信念によるものだとわかってくる。

  「スタジオ・ライブ」を経て、七二年二月、メンバーにエレキギターの大村憲司が加入した。続いて六月にドラムの村上(ポンタ)秀一氏が加入。
 新メンバーの頼もしいバックアップがあったのだろう、同年十二月、本当の意味でのオリジナルアルバム「パーティー」をリリースする。
 赤い鳥の強みはメンバー全員がヴォーカルをとれたことだ。同時に全員がソングライターであったことも特筆できる。
 当時、これほどメンバー個々に才能が分散しているグループはいなかった。その特徴が顕著に表れたのが「パーティー」である。

 赤い鳥もオリジナルで勝負できる時が来たと思うのだが、次のアルバム「美しい星」ではまた山上・村井コンビの曲に戻ってしまった。
 ヒット曲「翼をください」の英語バージョンおよび「月曜はブルーな日」等5曲のアメリカ録音(フィフス・ディメンションのアレンジャー・ボブ・アルシバーがプロデュース)を含む全12曲のうち、メンバーのオリジナルはわずか2曲だけだった。
 後年、後藤さんはこのアメリカ録音を「とにかく苦痛だった」と語っている。
 赤い鳥を海外に羽ばたかせたいプロデューサー・村井氏の意気込みと赤い鳥の(というよりリーダー後藤さんの)ビジョンにこのあたりからズレが生じてきたのではないだろうか。

 七三年、赤い鳥はメンバー自身の手になるアルバム制作に着手する。大村&村上コンビの加入によってロック色が強くなったサウンドと赤い鳥の世界(というか、後藤さんの世界)が見事にドッキングしたトータルアルバム「祈り」の誕生である。
 ここに僕は赤い鳥の音楽の、ひとつの完成をみたと思うのだが、アルバムリリース前に大村&村上コンビは脱退。
 赤い鳥の音楽、その方向性に対するメンバーの食い違い、軋轢、論争等もあったのかもしれない。「祈り」に収録されている後藤さんが詞曲を書いた「誰が鳥を」は今から思うと詞がかなりヘビーだ。

  誰が鳥を消したのだ?
  〝オレだ〟 風がいいました
  オレのクシャミで消したのだ
  
  誰がそれを見てたのだ?
  〝オレだ〟 森がいいました
  オレの頭に落ちてきたのだ

  誰が涙を流すのだ?
  〝私よ〟 雨がいいました
  私は銀色 涙の天使

  誰が墓をたてるのだ?
  〝オレだ〟 雄牛がいいました
  オレの角で墓を掘るのだ
  
  誰が鐘をたたくのだ
  〝オレだ〟 風がいいました
  オレのクシャミで鐘をならそう
  町中 祈りの鐘をならそう

 〈誰が鳥を消したのか〉と後藤さんのソロで始まるこの歌は赤い鳥へのレクイエムなのかもしれない。マザーグースの「Who killed Cock Robin?」にインスパイアされたとおぼしき歌詞に赤い鳥に対する想いが込められている。
 とはいえ、個人的には七人の赤い鳥によるオリジナルアルバムをもう少し発表してもらいたかった。

 内情はともかく、傍目にはうまくまとまって見えた赤い鳥が全国で約六百回のコンサートを行い、百万人以上の観客を動員したことを記念してライブ録音のLP「ミリオン・ピープル」を発表したのが同年十二月だった。
 「ミリオン・ピープル」は赤い鳥の実力を示すのに十分だったのではないか。誰もがその後の活躍を信じたに違いない。

 この頃から後藤さんは赤い鳥の活動に飽き足らず、平山さんとふたりで別の活動を開始していた。
 それがふたりのユニット(当時こういう言葉があったのかどうか知らないが)〈紙風船〉である。
 所属事務所から月に十日間の休みをもらい、赤い鳥ではフォローしきれない各地の公民館や施設を廻った。ふたりは当初赤い鳥がめざした〈誰にでもうたえる歌〉をもう一度追求しはじめたのだった。

     ▽
 現在彼は、平山さんと二人で懸命に試行錯誤をしています。というのは、各地の労音や理解者たちとの間で、小さなコンサートを赤い鳥とは別に開いています。これもきっと、人間関係の上での音楽を実験しているのです。彼らに興味のある方は、君の土地で、カンバン等見かけたら、聞きに行って下さい。きっと得ることがあるでしょう。
     △

 と、赤い鳥のコンサートで照明を担当している佐野一郎太氏は「ミリオン・ピープル」のライナーノーツに書いている。

 「ミリオン・ピープル」には付録としてメンバー六人(大村・村上コンビの脱退後にドラム担当で渡辺としゆき氏が加入)のポスターがついており、その裏面が「赤い鳥新聞」の拡大版ともいえるものだった。メンバーの文章だけでなく、スタッフ、関係者、友人等々の赤い鳥に贈る言葉が記載されていて、まさしく〈赤い鳥集大成〉といった感があった。
 ふたりは音楽だけの活動にとどまらなかった。
 当時の〈紙風船〉の活動について後藤さんが記している。

     ▽
 五つの部屋と風呂、二つのトイレのこの家に住んで半年になる。七人の人間が紙風船という名に表現された、音楽と活字を身近にひきよせて、日本のより多くの人々に私たちの意思を伝え、他人の意思を知ろうとする動きをようやくはじめ出した。仕事が終わって、夜遅くから始まる全員の話し合いは、いつも始発電車の音を耳にするまで続く。(後略)
     △

 赤い鳥でやろうとしていたことを改めて〈紙風船〉でやりはじめたのである。
 〈紙風船〉のある日の小さなコンサートを平山さんがスケッチしている。

     ▽
 今年の夏休みは、北海道を集中的にキャンプしながら旅をした。その夏休みの終わりのほうで、施設を訪問した。身体障害者施設だった。子供達は、くいいるように私をみた。子供達に紙風船をくばって遊んだあと、私は唄を4、5曲歌った。歌う私に子供達の眼がせまってきた。
 落ちてきたら、今度はもっと高く高く…子供は私に問いかけている。
「限りなく高く高く願いごとは、うちあげられるの?」「その前には、何も立ちふさぐものはないの?」
  白い翼をつけて下さい…
「きれいな声と眼をもって、いい服きて、まだ翼が欲しいの?」帰りぎわ、玄関にいた黒い子犬をなでようと、手をだすと、子 犬はおびえて、キャンと泣いて走り去った。帰り道、私の頭は、ぐるぐるまわった。何が私の唄なのか、待ちこがれる観衆の前で何を歌ったらいいのか、わからなくなった。体のすみずみまで、毒がまわり、その毒をある日、ドバッとはきだす。十ヶ月間、母の体の中で、じっと待つ続け、ある日ついに、子は母からひとり立ちしてへその緒は切られた。こんなぎりぎりの限界まで、たくわえて、迷い、不安にかられ、信頼し合い、その結果できたものは立派だ。口さきだけの言葉や空想でなく、私の体で経験し、味わい、たくわえたものが、言葉と音になってほとばしった時、私の頭は、ぐるぐるまわることを、やめるだろう。
     △

 ふたりの活動を他の三人はどう感じていたのだろうか。
 くわしくはわからないが、三人はより純粋に音楽に接していた(いたかった)と思える。
 ハイ・ファイ・セットになってから、山本(潤子)さんが音楽評論家・伊藤強氏の著書の中で赤い鳥の頃を振り返って次のようなことを答えていた(立ち読みで書名も内容もはっきりとは憶えていないのだが)。

     ▽
 後藤さんはひとつの歌を歌うとき、その背景にあるもろもろすべて理解しなければ気がすまなかった。それに対して私たちは楽しく歌えればそれでいいじゃないか、それでお客さんが満足してくれれば。そういうところでお互い溝が生じてきたのです。
     △

 音楽に対する目的がはっきりと分かれてしまったメンバーが同じグループに存在する必要はない。
 こうして、赤い鳥は解散することになった。七四年七月、ラストアルバム「書簡集」の発表後、九月三十日中野サンプラザの「さよならコンサート赤い鳥総集編」をもってプロデビューから4年間におよぶ活動に終止符を打ったのである。

 後藤・平山夫妻の紙ふうせんはアコースティックなサウンドによる伝承歌の再生、自分たちの生活に密着した素朴なフォークソングを創り歌うことで赤い鳥の原点に帰ろうとした。
 山本夫妻&大川さんのトリオ、ハイ・ファイ・セットは都会的センスにあふれる楽曲と息のあったハーモニーによるファッショナブルなステージングで、今までにないポップスを見(魅)せ、聴かせる斬新なコーラスグループへ転身をはかったのだった。

 新しいグループはそれぞれの目的を見出して新たに旅立った。
 結局、赤い鳥は後に全く異なった音楽を志向するふたつのグループが生まれるための試行錯誤の場だったといえよう。五人のアーティストたちの模索期間、実験台だった。
 ひとつのグループから二組のグループが誕生したことはわかる。しかし、だからといって解散という形をとるべきだったのか。

 もし後藤・平山夫妻が赤い鳥の原点の世界を継承するのであれば、山本さんたち3人の脱退、新グループ結成ではいけなかったのかだろうか?

 赤い鳥の事務所はバード・コーポレーション(現バード企画)である。その名称どおり赤い鳥のために設立された事務所だ。
 後藤さんたちは紙ふうせん結成と同時にそこを飛び出し新しく自分たちの事務所、その名も企画制作紙ふうせんを設立した。組織的にいえば彼らの方が脱退といえるのだ。それに赤い鳥のファンには山本夫婦と大川さんトリオの、というか新居(山本)潤子さん歌唱の楽曲にこそ赤い鳥の世界を感じる人も多くいるはずだ。

 赤い鳥は結成当時の目的とは別にもうひとつの音楽性を持つようになり、次第に当初の音楽性よりも脚光を浴びることになった。グループの名づけ親でもあり、真に赤い鳥の音楽を追求したかった後藤さんにとってはどこかで仕切り直しをしたかったに違いない。それは後藤さんの書く楽曲にしきりに「帰ろう」というフレーズがでてくることでも予想できる。
 ラストシングルのB面、最後の最後が後藤さんの作詞作曲「もう一度帰ろう」というのも意味深い。

  もう一度帰ろうか
  ぼくはぼくの町へ
  もう一度帰ろうか
  きみはきみの町へ

 ぼくを〈僕たち〉に、きみを〈君たち〉に変換すると、紙ふうせん組からハイ・ファイ・セット組に対するある種のメッセージソングになるのだから。

 メンバーの中で真っ先に解散を主張したのは後藤さんではなかったか。
 妥協を許さない後藤さんの頑な態度が赤い鳥の解散を決定づけたといえなくもないと僕は思っている。
 だいたい赤い鳥はふたつの音楽性があったからこそ魅力的だったのだ。ふたつの要素が乖離したらそれはもう赤い鳥ではないのかもしれない。
 分裂はやはり解散なのである。

 この項続く




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kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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