承前

 「赤い鳥について知っている二三の事柄」が赤い鳥の結成から解散までを自分の体験を通して、考えたこと、思ったことを中心に書いた〈論考のようなもの〉なら(とはいえ、一部取材はしています。ですのでHP掲載のものとは若干違っています)、こちらは解散後の紙ふうせん、ハイ・ファイ・セット(&解散後の山本潤子さん)の活動を同様に綴ったものです。

 なお、ここでは藤子不二雄Aとなっていますが、本当は○の中にAを表記します。

          * * *

 赤い鳥=藤子不二雄説をご存知だろうか。
 聞いたことがない? そうだろうな。単に僕が提唱しているだけだから。

 赤い鳥は一九七四年の秋に解散し、紙ふうせん、ハイ・ファイ・セットという二組のグループに分かれて活動を始めた。赤い鳥にはもともと二つの音楽性が内在していたのだが、それぞれのグループがその音楽性を受け継いだ。
 「竹田の子守唄」等の伝承歌とアコースティックなフォーク路線は紙ふうせん、都会的な華やかなポップス路線はハイ・ファイ・セットに、見事に区分されたのだった。

 藤子不二雄は二人で一人の漫画家だったが、一九八八年にコンビを解消し、その後、藤子不二雄A、藤子・F・不二雄という二人の漫画家になった。
 「笑ゥせぇるすまん」等の、いわゆる大人向けのブラックユーモアを得意とするA(安孫子素雄)氏と「ドラえもん」を代表とする児童マンガの王道を行くF(藤本弘)氏。かつて画風の違いから黒の藤子、白の藤子と評されたこともある二人が完全に袂を分けたのだった。

 二つの異なる音楽性あるいは画風があったからこそ、赤い鳥も藤子不二雄も魅力的だったといえないだろうか?
 赤い鳥=藤子不二雄説を唱える所以である。

 この説には、実はもう一つの意味合いがある。解散(コンビ解消)後、二組(二人)に別れた後のそれぞれの活動に対する世間の認知度も似通っているところだ。

 世間一般の認識では、藤子不二雄=藤子・F・不二雄、赤い鳥=山本潤子(ハイ・ファイ・セット)ではないかということだ。
 藤子不二雄=「ドラえもん」の面白さ、赤い鳥=山本潤子の声の魅力に置き換えてもいい。泥臭い絵柄の藤子A氏の作品、土着的な音楽を志向した紙ふうせんはどうしても分が悪くなる。特に紙ふうせんの場合は、関西、個人事務所という点からメディアへの露出が少く、活動していること自体、あまり知られていないのではないか。

 声の魅力でいえば、山本さんの魅惑ヴォイスを認めながら反発したい気持ちもある。
 平山さんの存在を忘れては困るのだ。「ミリオン・ピープル」の「もうっこ」なんて聴くたびにゾクゾクしていた。山本(当時は 新居、以下略)さんがα波の声だとすると、平山さんはオペラ歌手を目指していたほどだから本格的な歌唱も、歌のお姉さん的やさしく暖かい歌唱もさまになる。色の三原則にたとえれば、山本さん、後藤さん、大川さんの声がマゼンタ、シアン、イエローだとすると、平山さんはこの3色を引き立たせるブラックのような存在だった。
 実際、山本さんと平山さんのハーモニーになるとどっちがどっちなのかわからなくなることが多かった。特に高音と低音になると聴き分けができない。

 赤い鳥はメンバー全員がヴォーカリストだった。ただし、メインといったらやはり山本さんだろう。プロデューサーの村井邦彦氏は山本さんをメインに日本のカーペンターズを作ろうとしたのだから。確かに声の質という点でカレンと山本さんは一致する。山本さんのヴォーカルにメンバーがハーモニーをつける。これが赤い鳥の定番(という一般的な認識)。当然、山上・村井コンビの楽曲は山本さんのヴォーカルが多い。「翼をください」「忘れていた朝」「窓に明かりがともる時」などが有名だ。これは赤い鳥のポップな部分。

 では、もう一つの赤い鳥の音楽性、伝承歌やフォークの部分はというと、「竹田の子守唄」にしても「赤い花白い花」にしてもこれまたリードヴォーカルは山本さんなのである。

 ハイ・ファイ・セット解散後、ソロになった山本さんはまた昔のスタイルに戻って歌いだした。それまでの、ファッショナブルな衣装をまとい、ステップを踏む、ショービジネスの最先端みたいなスタイルから、かつてのシンガー・ソングライター的スタイルへ。赤い鳥時代の曲も歌うようになった。「翼をください」「竹田の子守唄」「赤い花白い花」。往年の赤い鳥ファンは拍手喝采だ。

 もう何年前になるだろうか。テレビ東京「そして音楽が始まる」という番組で「翼をください」が取り上げられた。歌が生まれた経緯、その変遷等を関係者による証言で構成していくのだが、山上路夫氏のインタビューに愕然とした。曰く「赤い鳥が解散して『翼をください』は歌い手を無くしたのです」。
 TVの前で思わず反論してしまった。紙ふうせんがずっと歌っているじゃないか! 赤い鳥時代と同様に観客を巻き込んで一緒にシングアウトしながら。あなたが知らないはずないでしょうが!

 「竹田の子守唄」に関してはもっと確かな姿勢がある。この歌は赤い鳥結成前から後藤さんと平山さんで歌っていたものだ。当初、この子守唄の出自について何の知識もなかった後藤さんは、高校時代の友人橋本正樹氏と調査を始める。
 京都伏見の同和地区の歌だとわかると、さっそく伝承する本人に会い、元歌に近い歌詞(久世の大根飯、吉祥の菜飯 またも竹田のもんばめし)を採用して以後このバージョンをステージで歌いだす。
 この詞に関する問題にもきちんと対処して、メディアの封印などものともせず、赤い鳥解散後も、また原点の歌唱にもどってずっと歌い続け、今では〈凄み〉さえ醸し出す紙ふうせんの珠玉の一曲になっている。

 「赤い花白い花」も後藤さんが友人からその存在を教えられてレパートリーにした経緯がある。ステージではたまに平山さんによる抱腹絶倒の歌唱指導つきで披露している。
 つまり、「竹田の子守唄」や「赤い花白い花」は、そのバックボーン、背景や思想性を考えると、明らかに赤い鳥から紙ふうせんに連なる〈後藤悦治郎の世界〉なのである。にもかかわらず、赤い鳥時代リードヴォーカルだった山本さんが十数年のブランクのあとに歌いだすと世間(ファン)はもうそれだけで反応してしまう。「これぞ赤い鳥の真髄だ」

 それはいい。当然という気はする。人には刷り込み作用というものがあるし、オリジナルの歌唱を絶賛したくなるのは僕自身にもある。とはいえ、赤い鳥時代、山本さんが歌っている数々の名曲の中で、なぜ「翼をください」「竹田の子守唄」「赤い花白い花」だけなのかという疑問がいつもあった。

 あるサイトに掲載された山本さんのインタビューによれば、ミュージシャン仲間の勧めがあったという。本人には紙ふうせん路線だとの認識があったのだが、仲間から「君が歌っていたのだから、また歌えばいいじゃないか」との励ましに背中を押されたと。

 だったら、なおさら赤い鳥のほかの曲も歌ってほしい。一時期赤い鳥に在籍していた村上〝ポンタ〟秀一氏の自伝「自暴自伝」(文藝春秋)によると、村上氏より先に赤い鳥の一員になっていた大村憲司氏は山本さんの声に惚れこんで、山本さんに歌ってもらいたくて曲作りをしていたのだとか。山本さん以外の歌唱を許さなかったともある。大村氏の曲では「虹を歌おう」が大好きだ。自身のオリジナル「河」や大川茂・山本俊彦コンビの「卒業」「くさひばり」なども思い出す。こうした曲の中に「竹田の子守唄」があるのならわかるのだが……。だいたい山上・村井ゴールデンコンビの曲が「翼をください」だけでは寂しいではないか。

 どうしてこんなことにこだわるかというと、そうでないと、なぜ赤い鳥が解散したのか、山本夫妻+大川さんの三人が赤い鳥のポップ路線をより傾注させたコーラスグループ、ハイ・ファイ・セットを結成したのかわからなくなってしまうのだ。

 「竹田の子守唄」が被差別部落の伝承歌であることから、一九七〇年代の後半から九〇年代にかけてメディアの自主規制で封印されてしまった。この経緯は「放送禁止歌」(森達也/知恵の森文庫・光文社)や「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」(藤田正/解放出版社)に詳しいのでここでは割愛する。
 赤い鳥の解散には、その理由として音楽に対するメンバーの考え方の相違、その確執が挙げられている。実際は後藤さんの、音楽ビジネス、芸能ビジネスに対する反発という側面もあるのだが、「竹田の子守唄」を歌う姿勢については後藤さんと他のメンバーの間で確執があったと「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」に書かれている。

  同和問題を背景に持つ「竹田の子守唄」を、その背景をも見据えて歌おうとする後藤さんと、歌を歌として楽しみながら聴衆に届けたいとするメンバーの対立。後藤さんと袂を分けた三人は、完全にフォーク色を払拭し、楽器すら手放して〈聴いていて気持ちのいい〉洗練された楽曲を歌っていく道を選択した。

 ハイ・ファイ・セットが元赤い鳥として「翼をください」や「竹田の子守唄」をレパートリーの一つにしていればそれはそれでよかった。しかし、赤い鳥のイメージをも払拭したようなコーラスグループの音楽性ゆえ、ステージに乗せることはできなかった、またそのつもりもなかったに違いない。そしてその時期がちょうどメディアの「竹田の子守唄」封印と重なり合うのだ。

 ハイ・ファイ・セットは結成当初こそ低迷(?)していたが、「フィーリング」の大ヒットで音楽シーンの第一線に踊り出た。以降僕はメディアを通して歌声を耳にすることになる。CMソングや映画主題歌に起用され、アルバムセールスも順調だったのではないか。ユーミンがそうであるように、ハイ・ファイ・セットはドライブで聴く音楽に最適なのだから。当時はニューミュージックと呼称されたが、JーPOPの元祖的存在といっていいかもしれない。

 曲は、自作もあるが、村井氏のほか積極的に他のミュージシャンに依頼している。ユーミンの歌もよくカバーしていた。デビューシングルは「卒業写真」である。
「オリジナルよりよっぽどいいよな」
 ラジオやTVから流れてくるといつも思っていた。

 一方、紙ふうせんはというと、頑なに自分たちの音楽を追求してきた。民謡やフォルクローレ以外、ほぼ後藤さんの作詞作曲。赤い鳥解散後東芝EMI(現EMI Music Japan)からリリースされた二枚のアルバム「またふたりになったね」「愛と自由を」はそれこそ〈後藤悦治郎の世界〉を見事に表現したものだったが、流行の音楽に逆行するかのような体裁なのでほとんど話題にならなかった。

 レコードセールスも芳しくなかったのだろう。平山さんの産休で後藤さんのソロとしてリリースされたシングル「少年の日」のB面「ぼくらいつでも陽気でいたい」は当時の音楽状況について後藤さんが心情吐露した歌に思えてならない。もちろん後藤さんのことだから直接的には表現していないけれど。

 CBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍して「冬が来る前に」のヒットで脚光を浴びるが、それまでのファンの中には、そのあまりに今風(当時として)なアレンジ、あるいは以降のヒット狙いのラブソングのリリースに違和感を持って離れていった人たちもいたのではないかと思う。商業主義に走ったとか何とか。「冬が来る前に」はレコードになるかなり前からステージで歌われていた、フォルクローレ風の曲だったのだ。

 かくいう僕もそんな一人になりそうだった。ただ「冬が来る前に」ヒット直後にリリースされたアルバム「再会 ―新たなる旅立ち」を聴いて安心した。世界感は少しも変わっていなかった。たぶんそれはライブに触れていたらわかっていたことだと思う。コンサートではいつだって「翼をください」を皆でシングアウトし、「竹田の子守唄」をしっとり歌いこんでいたはずなのだ。

 一九九〇年になると紙ふうせんはハーモニーの充実を求めて、メンバー二名を加え、TSU-BA-SAとして新たな活動をはじめた(二年後また紙ふうせんに戻る)。FM東京ホールでのお披露目コンサートにはハイ・ファイ・セットからの花が届いていたのが印象的だった。その後ハイ・ファイ・セットは活動を休止した。充電期間中に例のショッキングな事件が起きた。この事件で解散を余儀なくされ、山本潤子さんはソロ活動を開始する。シュープリームスから独立したダイアナ・ロスになるかと思いきや、スタイルはあくまでもフォークのそれだ。原点に戻ったといえる。
 そこにサッカーW杯の、サポーターたちによる「翼をください」合唱ブームが押し寄せる。山本さんはふたたび「翼をください」を歌いだす。

 その後TVドキュメンタリー「放送禁止歌」が話題を呼び、ディレクターの森氏は同名の本を上梓。「竹田の子守唄」は放送禁止歌ではなく、単にメディアが自主規制しているだけだったということが世間に認知されていく。音楽評論家の藤田氏が「竹田の子守唄」の歴史に深く切り込んだ「竹田の子守唄 名曲に隠された真実」を上梓するのに足をあわせるかのように、「竹田の子守唄」が解禁されていく。山本さんが「竹田の子守唄」を歌いだしたのはこのころだったのではないか。

 山本さんは、鈴木康博氏、細坪基佳氏とユニット、Song for Memoriesを結成して、ソロと平行して活動している。赤い鳥(ハイ・ファイ・セット)+オフコース+ふきのとうの三色アイスは往年のフォーク世代を熱狂させるのに十分だと思うが、狙いは三声のハーモニーだろう。このユニットとは別に男女四声のコーラスグループAprilの一員としても活動している。
 紙ふうせんが一時男女四人で活動を始めたことはすでに述べた。ふたりに戻ってからは、バックサポート(ギター)に後藤さんの大学の後輩であるすぎたじゅんじ氏を起用。すぎた氏はHaruという男性デュオの一員としても活動しているシンガー・ソングライターでもあるから、以後ステージでは三声が基本となっている。
 ともにコーラスワークに対するこだわりが感じられる。その原点はPPMか。

 僕の知る限り、紙ふうせんとハイ・ファイ・セットが共演したことはなかった。山本さんがソロになってからは、フォークの祭典的なイベントで何度か紙ふうせんと同じステージに立っているが、あくまでも一アーティストとしての出演だったはずでステージ上での接点はなかった。紙ふうせんが主催者側にいた神戸震災復興コンサートでは山本さんがゲストで呼ばれ三人で歌ったらしいのだが。

 二〇〇七年の秋、久しぶりの共演が実現した。しかも一緒に「翼をください」を歌ったのである。ニッポン放送主催の「渋谷フォークジャンボリー あの素晴らしい歌をもういちど」(渋谷C.C.Lemonホール)というイベントだ。〈プチ赤い鳥〉あるいは〈赤い鳥5分の3〉だとさかんに強調されていた。赤い鳥の生のステージを観たことがない僕は〈まるで赤い鳥のように〉だなと興奮を隠せない。元六文銭メンバー、小室等、四角佳子、及川恒平の三氏によるユニット〈まるで六文銭のように〉のもじりだ。感激したことはしたのだが、同時に赤い鳥の再結成はないと今度こそ確信できた。

 「翼をください」は三人だけでなく出演者のほぼ全員がステージに並んだ。一番を山本さん、二番を平山さんが歌い、サビはステージに並んだ全員で合唱。この全員というのがくせもの、いくら合唱曲の定番だといえ、フィナーレでもないのに人数多すぎだろうと思った。せめて細坪氏を加えた四人ではいけなかったのか。歌い終わっても、三人が赤い鳥時代の思い出話に花を咲かすこともない。

 赤い鳥の再結成を願うファンは多い。僕自身、十年ほど前に再結成はないと思ったものの、それでもなんとか復活の糸口がないか考えていた。五人が揃うのはむずかしいかもしれない。しかし、赤い鳥ファミリーというスタイルならどうだろうか。
 後藤さん、平山さん、山本さんの三人を中心に、一時メンバーだった村上氏、村上氏が脱退した後、ドラムを叩いた渡辺俊幸氏、それに、バックサポートの浦野直氏(ベース)や深町純氏(キーボード)を加えた編成。もちろん御大村井邦彦氏を特別ゲストに呼んでピアノを弾いてもらう
 そんなコンサートなら実現可能かもしれないと淡い期待を抱いていたのだが。

 あの日の紙ふうせんと山本潤子さん。一緒に「翼をください」を歌いながら互いに何を思っていたのだろうか?




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kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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