同人ならぬ異人誌「まぐま」の70年代特集号に音楽に関する文章を依頼され寄稿したのが「フォークはジャンルではなかった。」である。その後、「僕たちの赤い鳥ものがたり」の本をだすにあたって、おわりにに収めた。

          * * *

 一九七〇年代はフォークの時代だった。
 その前半はまさに黄金時代だったといえるだろう。ちょうど中学時代を送った僕はその洗礼をたっぷり浴びたものだ。
 あの時代、フォークとは一体何だったのだろうか?

     *
    
 フォーク、フォークソングとは何か?
 前田祥司・平原康司編著『60年代フォークの時代』(シンコーミュージック)によれば〈古くから各地で伝承されてきた民謡や、民衆の価値観や生活の実感から生まれてきた歌〉とある。
 そうか、赤い鳥解散後ずっと追いかけている紙ふうせんはまさしくフォークを歌っているのかと改めて思う。
 ともかくフォークにはそれまでの歌謡曲にはない何かがあった。その何かに僕は強く惹かれたのだ。

 初めての歌謡曲との出会いはグループサウンズだった。六〇年代の後半、小学2年か3年の時だ。彼らが楽器を演奏しながら歌うスタイルに痺れた。
 アメリカの人気TVドラマ『ザ・モンキーズ』の影響があったかもしれない。モンキーズがビートルズの亜流としてTV局が番組用に作ったなんてことは当時知るよしもなかった。
 ビートルズに目覚め、その音楽の魅力にとりつかれるのはずっと後になってからである。

 グループサウンズ(GS)との出会い――それはタイガースの「モナリザの微笑」だった。「モナリザの微笑」聴きたさにTVの歌番組を見るようになって、ただ単に歌う人(ヴォーカル)より楽器を演奏しながら歌う人に注目すようになった。
 加橋かつみがギターを抱えながら「花の首飾り」を歌った時にその思いが決定的になった。ジュリーよりトッポの方が断然かっこよかった。
 同時に歌を作る人にも興味を覚えた。「青い鳥」を作詞作曲したのが、森本太郎だと知ると、今度はタローが憧れの存在となった。

 その頃、歌というものを誰でも作れるなんて考えもしなかったのだ。作詞家、作曲家と呼ばれるのはうんと年をとった偉い人というのが小学生だった僕のイメージだった。
 「バラが咲いた」等多数の流行歌の作曲家で、子ども心に注目していた浜口庫之助を最初にTVで見た時、僕の作曲家のイメージは固まった。
 年に一度「日本レコード大賞」の番組に出演する古賀政夫や服部良一の影響がたぶんにあったかもしれない。

 自分で歌を作り、自分で演奏し、自分で歌う。シンガー・ソングライターという存在がとてもまぶしく見えたのだった。
 GSブームは歌謡界を席巻した。数々のバンドが登場し、今でもカラオケで愛唱するようなヒット曲を生んだ。当然僕はTVの歌番組で彼らを追いかけた。
 夢中になりながら漠然と疑問がわいてきた。
 どうして詞の内容に現実感がないのだろう?
 湖、乙女、古城、白鳥……そこに描かれる世界はもろ西洋のおとぎ話。
 歌謡曲自体も惚れたはれたの恋の歌ばかり。
 七一年、小学6年にもなるとそんな歌謡曲に興味を失っていく。GSブームもすでに下火になっていた。

 その頃から洋画を観るようになった僕は映画音楽に夢中になる。
 『小さな恋のメロディ』でビー・ジーズを知った。ラジオで特集(当時この手の音楽は〈ラブサウンズ〉と呼ばれ、専門の番組もあった)があると、家にあった古臭いトランジスタラジオを取り出してきて夢中になってダイヤルを合わせた。
 『ある愛の詩』ではまずフランシス・レイの音楽に夢中になった。『白い恋人たち』『男と女』の音楽にも酔いしれる。

 洋楽に対する目覚め。映画音楽から洋楽に移行しジャズに行き着くのが王道だと後に聞いたことがある。
 歌謡曲に興味を失っていた僕は当然ビー・ジーズやフランシス・レイあたりから海外のポップスに耳を傾けてもいいはずだった。そうはならなかった。フォークブームが押し寄せてきたのである。

 よしだたくろう(デビュー当時の表記)の「結婚しようよ」をクラスのませた女の子たちがくちずさむようになった。「変なメロディだな」といぶかしく思っていたら、あれよあれよというまにヒットしてしまった。

  僕の髪が肩まで伸びて
  君と同じになったら
  約束どおり街の教会で
  結婚しようよ

 男が肩まで髪を伸ばす、それを恋人との結婚の約束にする行為が十二歳の少年には何とも不思議に思えた。歌と同じように肩まで髪を伸ばしたたくろうが結婚したことが驚きだった。
 実生活をそのまま歌にしている!

 同じ頃、小室等をリーダーとする六文銭が上條恒彦をヴォーカルに迎えて「出発(たびだち)の歌」で〈世界歌謡祭〉グランプリを受賞している。(ちなみにたくろうの結婚相手は六文銭のメンバー・四角佳子だった。)
 上條恒彦の豪快な声量、ラブソングではない雄大な曲がたまらなく魅力的だった。

 翌七二年、生まれて初めてレコードを買った。TVの人気時代劇『木枯し紋次郎』の主題歌「誰かが風の中で」である。
 小室等・作曲、上條恒彦・歌。
 長髪に髭を伸ばしたヒッピーみたいな人がこんな素敵な曲を作るのか!
 英語(カタカナ)のグループ名ばかりだったGSに比べ、日本語のグループがいることにも目を瞠った。

 レコード店のフォークコーナーで赤い鳥の名を発見した時はちょっとした衝撃だった。語感、字面。実にセンスが良かった。
 六〇年代にアメリカのモダンフォークが日本に輸入され、日本流にアレンジされて歌謡曲の一ジャンル、カレッジフォークとして人気を博したこと、もう一つの流れとしてメッセージ性の高い、いわゆる〈関西フォーク〉としてアングラ的なムーブメントがあった背景など知りはしない。
 僕がフォークという音楽があることをはっきりと意識したのはこの時である。
 ただし率先してフォークを聴きだしたわけではない。まだ映画音楽にどっぷりつかっていたのである。 

 中学生になってからは音楽とセットにして洋画を観ていたところがある。ニーノ・ロータ(『ロミオとジュリエット』『ゴッド・ファーザー』)、エルトン・ジョン(『フレンズ』)、ヘンリー・マッシーニ等々。サウンドトラックのEPを買い集めたものだ。アンディ・ウィリアムスの「ゴッド・ファーザーのテーマ」はEPをかけながらよく一緒に歌っていた。
 話が前後するが、中学生になると、とたんにギターブームに見舞われた。猫も杓子もギターを抱えて「禁じられた遊び」を弾いていた。

 ギター熱はそのままフォーク熱に移行していく。
 2年になると抜群のギターテクニックを身につける同級生たちが現れた。
 彼らは授業で購入したガットギターから自腹のアコースティックギターに持ち替えフォークソングを歌いはじめた。

 その中に一緒に映画音楽に夢中になっていた親友がいて、バンドを組んで六文銭や岡林信康を盛んにコピーしはじめたのだ。こうなると僕も影響されないはずがない。
 ギターがまったく上達しなかった僕は、バンドに参加することはなかったものの、彼らに借りたカセットテープでフォークを浴びるように聴くようになったのである。

 歌謡曲を、特にアイドルが台頭するようになって、完全に見くびっていた。プロの作詞家、作曲家が提供する歌を言われたとおりにただ歌う人形のように見えた。歌そのものも作りごとの嘘の世界。ほとんどが恋の歌ばかり。触発されるということがなかった。おもしろくも何ともない。
 それに比べ、フォークの歌い手たちはまがりなりにも自分たちの言葉を持っていた。ほとんどが自作自演。シンガー・ソングライターとしての魅力である。(だからギターなり、ピアノなり弾けないと、なおかつ曲作りができないと、どんなに歌唱力があっても僕自身の評価は低かった。)
 詞の内容が何やら奥が深そうに思えた。

 六文銭の歌に知的好奇心をくすぐられた。印象的なメロディで歌いやすかった。
 「街と飛行船」「夢のまた夢」「面影橋から」等々。

  面影橋から天満橋
  天満橋から日影橋
  季節はずれの風にのり
  季節はずれの赤とんぼ
  流してあげよか大淀に
  切って捨てよか大淀に

 たぶんに及川恒平の世界に惹かれていたのだと思う。

 井上陽水の「傘がない」には度肝を抜かれた。
 都会で自殺する若者が増えていることより政治よりも、雨の中、恋人に逢いに行くのに傘がないことが問題だ、と嘆くこの歌については学生運動の挫折と結びつけて当時知識人たちがしたり顔で語っていた。しかし、僕はこの〈何よりも君に逢いたい〉という想いがまっすぐに胸に響いた。そういうピュアな気持ちを社会情勢と絡めて皮肉まじりに表現する姿勢なのではないかと。
 へたなギターでどうにかコード進行できたのが「東へ西へ」である。詞にくぎづけになった。どうしてこんな詞が書けるのだろうかと思った。

  電車は今日もスシズメ
  のびる電車が拍車をかける
  満員いつも満員
  床に倒れた老婆が笑う

 こんな異様な風景が歌になるなんて! 
 とにかく陽水の詞にはショッキングな言葉が多い。「かんかん照り」では暑さにやられて子どもが死んでしまうのだ。よくわからない世界が展開されることが多かった。哲学(というものがどういうものか知らなかったが、とにかく難解な内容ということで)みたいな世界がAmやEmを多用した暗くて甘いメロディに乗って展開されるのだからたまらない。

 泉谷しげるの登場も忘れられない。
 聴いたのはライブ盤。「黒いカバン」に笑った。客席から「黒いカバン」のリクエストがあって、歌うたびにメロディが変わっちまうんだとか何とか言いながら歌いだすのが、歌なのかつぶやきなのか叫びなのかわからないヘンテコなシロモノだった。要は警察官に不審者と疑われた泉谷が何だかんだと難癖つけるというもの。
 かと思うと「春夏秋冬」では繊細な詩人の片鱗も見せる。アナ―キーなロマンチスト。キャラクターが強烈だった。
 「国旗はためく下に」は高校生になってから小室等のカバーで知った。

  貧しき者は美しく思われ
  富あるものはいやしく
  夢を語るは禁じられて
  ただただ割り切れと
  小さい者の無いものねだり
  たまに手にする札束切らし
  旗を掲げて他国へ飛び
  恥の上塗りこの上なし

  国旗はためく下に集まれ
  融通のきかぬ自由に乾杯

 拓郎や陽水は確かに人気者だった。しかし当時男女ともに熱心に聴いていたのがかぐや姫ではなかったか。
 「神田川」のヒット、それに続く「赤ちょうちん」「妹」の三部作。解散後伊勢正三が組んだ風のファーストシングルでヒットした「22歳の別れ」。

  あなたはもう忘れたかしら
  赤い手ぬぐいマフラーにして
  ふたりで行った横丁の風呂屋
  一緒に出ようねって言ったのに
  いつも私が待たされた
  洗い髪がしんまで冷えて
  小さな石鹸かたかた鳴った
  あなたは私の身体を抱いて
  冷たいねって言ったのよ

  若かったあの頃何も怖くなかった
  ただあなたのやさしさが怖かった

 詞は喜多条忠、作曲は南こうせつ。
 歌謡曲に嫌気がさしていた要因の一つに男が書く女言葉の詞、それを男が歌う気持ち悪さ、というものがあった。
 かぐや姫の「神田川」や「22歳の別れ」はまさしくその流れになるのだが、なぜかこの世界はすんなり受け入れられた。〈四畳半フォーク〉などと揶揄もされたが、中学生にその意味することなんてわかりはしない。
 二十代男女の、まるでドラマのワンシーンのような、リアリティのある私小説的恋物語に十数年後の自分たちの姿を重ね合わせたような気がする。まだ実感としてわからない恋愛への羨望と憧憬だろうか。

 ちなみに三部作はすべて映画化されている。『神田川』は東宝で出目昌伸監督、草刈正雄・関根恵子主演。『赤ちょうちん』と『妹』は日活で藤田敏八監督、ともに秋吉久美子がヒロインを演じた。

 「神田川」は当時地方に住む女子中学生に都会生活におけるある種の願望を抱かせた。
 同棲でも何でもいい、一間のわびしい部屋で暮らし、彼と一緒に銭湯に行くというものだ。本当にしたいわけではない。ちょっと経験できればいい。
 七〇年代末から八〇年代初め、すでに三畳間なんて部屋はなくなっていたが、四畳半一間はまだまだ一般的だった。貧乏学生(社会人)とつきあって、一時「神田川」の生活に触れてみる。銭湯に一緒に行くことは必須条件。それを青春の思い出にそれなりに収入のある人と結婚して風呂、トイレ付2DKマンションの生活を満喫するというもの。
 個人的にこれを〈神田川症候群〉と呼んでいる。経験者が語るのだから間違いない!

 閑話休題。
 僕はといえば、六文銭から小室等のソロ活動に注目していった。
 小室等の書くメロディが自分の感性にフィットしていたということがある。と同時にその詞の世界が哲学あり、叙情あり、自然賛歌ありというもので、あふれんばかりのイメージを喚起させてくれたことも大きい。

 小室等はほとんど詞を書かない。さまざまな人が詞を提供していた。
 たとえば代表曲の「雨が空から降れば」は劇作家の別役実の作である。お気に入りの「かげろうの唄」は「誰かが風の中で」に続くシナリオライターの和田夏十。この曲は市川監督が手がけたTV時代劇第二弾『丹下左膳』の主題歌だった。
 ソロ歌手小室等を最初に意識したのがライブアルバムの「デットヒート」だ。
 このアルバムに収録されている「12階建てのバス」はイラストレーターの小島武という人が作詞している。シュールな世界にぶっとんだ。
 

  どこからやってくるのだろう
  約束のようにバスがやってくる
  12階建てのバスが、バスがやってくる

  あれは昨晩遅く
  彼女に会いたくなった
  だから会いに行った
  彼女は明るく言った
  あたしに何ができるの 教えて欲しい
  私たちは花火のようになった

 サビのバスのくだりとその後に続く彼女との関係がまったくつながりがない。12階建てのバスのイメージが強烈である。12階建てのバスとは何の比喩なのか? こうした詞の作りは陽水にも多く見られた。
 現代詩そのものに曲をつけることも得意としていた。黒田三郎「苦行」、茨木のり子「12月の歌」、後の谷川俊太郎「いま生きているということ」など。

 決定的な出合いは赤い鳥だった。
 小学6年の時のアルバムジャケットとの出会いから約2年、音楽の授業だった。
 大学を卒業したばかりの若い先生の授業がいっぷう変わっていた。教科書なんてほとんど無視し、毎回さまざまな音楽を聞かせてくれた。ジャズ、民謡、津軽三味線……。
 ある日、「日本にこんなすぐれたグループがいる」と言って紹介してくれたのが赤い鳥だ。
 「竹田の子守唄」「翼をください」、「忘れていた朝」…赤い鳥の曲の中で最初に僕の耳をとらえたのが「紙風船」だった。
 

  落ちてきたら
  今度はもっと
  高く高く
  打ちあげようよ
  高く高く
  打ち上げようよ

 これもまた現代詩である。詩人・黒田三郎の『もっと高く』という詩集の一編にリーダーの後藤悦治郎が曲をつけたものだ。
 「紙風船」を聴きたくて赤い鳥のベストアルバムを購入した。これが僕の初めて手に入れたフォークのLPなのである。それまではすべて友だちからLPをダビングしたテープを借りていた。小室等のアルバムを買い集めるのは高校生になってからだった。
 
 フォークの名のもと、数多くのアーティストがミュージックシーンに登場し、ヒットチャートをにぎわせた。ソロ、デュオ、バンド、それこそ百花繚乱という感じ。
 ガロの「学生街の喫茶店」やチューリップの「心の旅」は自転車に乗りながらよく口ずさんだ。
 BUZZの「ケンとメリー ~愛と風のように」のサビはどうしたって〈愛のスカイライン〉って歌ってしまう。

 ふと思いついて口ずさんでいたメロディに良く似ていたふきのとうの「白い冬」。
 あのねのねのライブには大笑いした。テープは大人気でクラス中をいったりきたりしていた。誰もアルバムまで買おうとはしない。
 海援隊の「母に捧げるバラード」。「紅白歌合戦」に出場した三人のジーパン姿は貧乏臭かった。「紅白」にカジュアルは似合わない。

 なぎらけんいち「悲惨な戦い」。PPMの反戦歌に同名の歌があったなんて……。なぎら流のモジリだったのか。
 りりィ「私は泣いています」。ムード歌謡っぽいアレンジとハスキーな声がマッチしていた。
 童顔のイルカは伊勢正三の「なごり雪」をカバーしてヒットを放った。伊勢正三バージョンの方が断然いいと思うけれど。

 NSP「夕暮れ時はさびしそう」には腹が立った。何が〈突然呼び出したりして、ごめん、ごめん〉だ。この軟弱モン!
 軟弱モンといえばさだまさしと当時は言われていたような気がするが、僕はそうは思わなかった。「檸檬」や「飛梅」は女心の不可思議さを憂う男の詩だと思う。

 グレープの「精霊流し」はヒット時に「暗いメロディの繰り返しばかりで嫌い」と言った母親の言葉を覚えている。その後さだまさしの大ファンになるくせに。
 そんな母親とTV「ミュージック・フェア」で共演した五輪真弓と荒井由実、どちらが美人かで論争したこともある。
 アリスは受付けなかった。歌がもろ歌謡曲という感じ。谷村新司の曲は虚構の世界の匂いがぷんぷんした。片や堀内孝雄が醸し出す世界は親しめたのに。(その堀内孝雄も後年演歌の世界へいってしまうとは!)

 フォーク歌手のコンサートは歌と歌の間のおしゃべりが面白いとよく言われた。
 おしゃべりが得意な歌手はラジオのパーソナリティに起用され、自分の番組を持った。
 吉田拓郎は各局の深夜放送のパーソナリティを歴任したのではないか。「パック・イン・ミュージック」の山本コータローや「セイ・ヤング」の谷村新司は本業よりも適任だったような気がする。

 七四年になるとフォークは完全に市民権を得た。この年を境に、以後、フォークは〈ニューミュージック〉と名称を変えてより一層発展、拡散していったと思う。
 それまでレコード会社の管理外にあったフォークが商品として一つのジャンルを確立したともいえる。
 フォークという名で一つの枠にくくるにはあまりにも歌そのものが多様化した結果かもしれない。

 すでにアコースティックギターによる弾き語りだけがフォークの専売特許ではなくなっていた。
 ミリオンセラーになった陽水の「氷の世界」が〈陽水の変貌〉と受け取られたのが不思議でならなかった。デビューアルバム「断絶」やライブ盤「もどり道」との差は単にサウンドの厚さの違いでしかなかったからだ。
 エレキギター、ドラム、キーボードのサポートは当たり前だった。
 小室等のライブ盤「デッドヒート」もバンド編成だった。拓郎の「LIVE'73」ではブラスセッションも導入している。
 ある時期〈フォーク・ロック〉と総称された所以である。

 歌謡界自体が人気のフォークを取り入れることに躍起になっていた。
 「襟裳岬」は森進一が歌えば演歌になるが、拓郎の手にかかればフォークなのである。「旅の宿」が演歌になる可能性だって十分ある。
 同じように「たどり着いたらいつも雨降り」はモップスが歌えばロックなのだ。
 曲はアレンジ次第でいかようにでもなるのではないか。最近では「心もよう」だって演歌だと思うほどだ。

 七五年の春から高校生になった僕は一部のアーティストを除いてニューミュージックと呼ばれ始めたフォークに急速に興味を失っていった。
 僕をフォークに導いた友人たちはビートルズを皮切りにレッドツェッペリンやディープパープルなどのハードロックに興味が移っていった。モダンジャズに走る者もいた。
 僕は僕でビートルズに始まって柳ジョージ&レイニーウッド、カルメン・マキ&OZ等、日本のロックバンドのアルバムを買い集めるようになった。TVドラマや邦画の主題歌、挿入曲に使用されことが要因である。

     *

 あの時代、僕はフォークに何を見たのか? 何を感じたのか?

 たとえばTV出演の拒否。当時は今と違って歌番組がたくさんあってヒット曲があれば歌手はTVに出演するのが当たり前だった。それがフォーク界の二大巨頭、拓郎も陽水も頑なに拒否した。体制に対する反発は爽快だった。
 たった一曲で自分の世界を理解してもらえないから、とは拓郎の弁。拓郎の場合、CMソングを盛んに歌って商業主義と批判もされたのだが。陽水の「TVは見るもので出るものじゃない」というシニカルな態度が印象深かった。
 EP(シングル)ではなくLP(アルバム)製作を基本に、コンサート主体の活動に力を入れた。

 歌謡界ではそれまで〈営業〉と呼ばれ、一段低く見られていた地方巡業を〈全国ツアー〉と銘打ち、積極的に行ったのだ。これはやがて歌謡界でも常識になっていく。
 たとえばそのファッション。肩まで伸ばした髪にはきふるした小汚いベルボトムのブルージーンズ。身体にフィットしたTシャツ。ロンドンブーツ。まさしく〈自由〉の謳歌といった感じで当時は本当にかっこよく見えたのだ。
 長髪とロンドンブーツ以外は僕も真似した。もっとも足の短い少年にとってベルボトムが限りなくストレートに近いシルエットになってしまったのだけれど。

 あるいは仲間たちの連帯・交流。数多くのフォーク歌手が集った伝説の〈中津川フォークジャンボリー〉は憧れの最たるものだった。
 吉田拓郎らが所属していた音楽事務所〈ユイ音楽工房〉のユイは小室等の愛娘の名前からとられている。
 拓郎、陽水、小室、泉谷が手を組み、フォーライフレコードを設立したことは既成のレコード会社を震撼させる大事件となった。
 友情、恋愛、仕事、彼らの手によって新しいライフスタイルが切り開かれているように感じた。

 大阪万博で幕を明けた七〇年代。しかしそれは決して明るい未来を告げるものではなかった。
 高度成長の〈つけ〉とでもいうべき公害問題が浮上してきた。ヘドロ、光化学スモッグの文字が毎日のように新聞記事やTVニュースを飾った。公害で生まれた怪獣が映画やTVに登場する始末。

 三島由紀夫の自決事件、連合赤軍によるあさま山荘事件はとてつもない衝撃だった。
 小松左京の「日本沈没」がベストセラーとなり、連動するかのように「ノストラダムスの大予言」が大ブームとなった。別に信じたわけではないが、一九九九年に自分がいくつになるのかそっと計算してみたりした。

 オイルショックに見舞われ、紙不足が深刻になった。週刊少年マンガ誌がみるみる薄くなった。主婦たちがトイレットペーパーを求めてスーパー内を走り回る姿は異様だった。
 暗い世相だった。中学生になればそうした現実を否応なく直視しなければならなくなる。将来はいったいどうなるのかと不安を覚えたこともある。
 そんな中にあってちょうど一つ上の世代にあたる若者たちの活躍に夢を求めた。
        
 戦後生まれのベビーブーマーたち。堺屋太一によって〈団塊の世代〉と命名された若者たちが、フォーク――それは反戦歌でもプロテストソングでもなく、自分たちの言葉で自分たちの生活、心情、愛や希望をうたう歌――を旗印に既成の文化・概念をことごとく打破していく姿を僕は羨望の眼差しで見つめていた。彼らに自分の未来を重ね合わせていた。

 そう、彼らは未来そのものだった。
 フォークはその象徴だったのである。




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Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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