昨日(22日)は地元シネコンにて「フォックスキャッチャー」観賞。
 夜、ネットニュースで坂東三津五郎の訃報を知る。歌舞伎にはまったく詳しくないが三津五郎というとふぐ中毒で亡くなった先代のイメージが強い。俳優として八十助に親近感がある。59歳。若すぎる。「ルーズヴェルト・ゲーム」で元気な姿を見せていたのに。

          * * *

 承前

2015/02/09

 「アメリカン・スナイパー」(試写会 一ツ橋ホール)

 (ラストに触れています)

 クリント・イーストウッド監督は感動を強制しない。
 たとえば、「タイタニック」。あの映画のラストでキャメロン監督は観客の肩をむんずとつかむと思い切り揺さぶり、「泣けよ、泣くんだよ!」と絶叫していた。もちろん僕は大泣きだった。長いエンディングロールに感謝したほど(涙が乾いてくれて助かった)。大泣きだったけれど、心の中で「やりすぎだよ」と思っていた。「どうしてここまで泣かせなければならないの?」

 つまり、ラスト、カメラが海底に沈むタイタニック号のデッキに寄ると、まるでそこに照明が当たったように明るくなって、暗転、スタッフロールが流れるだけで十分感動を呼ぶのではないかと個人的には思ったのだ。実際、明るくなったところで目頭が熱くなった。それで十分ではないか。その後、カメラがヒロインの目となって、階段を一段々上がっていき、正装したディカプリオが出迎えるショットは余計だった気がしていならない。
 イーストウッドの監督作品には感動部分をそっけなく簡単に処理してしまうことが多い。だからこそしみじみした余韻があとあとまで残るのだ。

 個人的なことかもしれないが、号泣した映画はそのときは心揺さぶられるものの、映画館を出るとあまり感動が残らない場合が多い。泣いたことで自己完結してしまうからだろうか。
 日本映画だと「砂の器」がそうだった。映画は名作だと思っているが。

 近年、ことさら感動を煽る、観客の涙を絞ろうとする映画が増えている。観客の方が泣ける映画を求めているところがある。
 僕はというと、泣ける映画です、なんて宣伝されると絶対劇場に足を運びたくなくなる。映画を観ていて、相手の泣かせてやろうなんて魂胆がわかれば、逆に白けてしまうところがある。あくまでも個人的な資質であるが。
 イーストウッド監督作品は感動を、泣かせを強調しないぶん観賞後のしみじみ感、切なさが後を引く。

 今回、主人公の悲劇を1行のスーパーインポーズで済ませ、その葬儀シーンを淡々と描くくだりで涙がにじんだ。
 原作は読んでいないし、事前に情報を仕入れなかったのでどんな内容なのかも知らなかった。主人公が4回め(最後)のイラク戦争派遣から帰ってきてからの日常生活描写が長い。何も知らないけれど、その先に待っているものが何なのかはわかる。実に何とも嫌な、ドキドキ感。その結果が実にあっけない。
 残された家族(幼い子)を配慮した結果のラストということだが、イーストウッドらしいと思った。

 クリント・イーストウッド監督は観客にカメラを意識させない。「ジャージーボーイズ」のときも感じたことだ。ごくごく普通のカットの積み重ねでドラマを描いていて、ふと気がつくと映画世界にどっぷりハマっている。

 無音のエンディングロールが話題になっているが、劇中にもほとんど音楽は流れない。途中まで音楽がないことに気がつかなかった。それだけ映画世界にのめり込んでいたということか。




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Author:kei
新井啓介
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まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。さまざまなイベントを企画、開催していますので、興味あれば一度覗いてみてください。

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