ゴジラとモスラとメカゴジラの競演。どうせならキングギドラも出演させればよかったのに。そんな皮肉を言いたくなる。
 これまでモスラやメカゴジラが出演するゴジラ映画はヒットしたから、その路線を狙ったのだろう。前作は評判もよかったし。ところが期待したほどの興行成績をあげられなかった。そりゃそうだろう、いい加減ファンは飽きたんだよ、いくらなんでも。
 で、次の50周年記念の作品が〈東宝チャンピオンまつり〉のゴジラ映画への方向転換だ。
 もう完全にシリーズがブレまくっている。
 
 樋口・庵野コンビによる新作ゴジラはどうなるのか。「進撃の巨人」を観るかぎりではけっこう期待できるのでは、と個人的には思っている。ゴジラより餓夷羅の方がいいんのだけど。

     ◇

2003/12/13

 「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」(日劇PLEX)  

 メカゴジラ嫌いの特撮ロートルファンとしては、新作が『ゴジラ×メカゴジラ』の続編と聞いてまずタメ息がでた。モスラの再々々(?)登場にうんざりして、タイトルの「東京SOS」にほとんどげんなりとなった。  
 前作「ゴジラ×メカゴジラ」は「ミレニアム」以降のシリーズ同様ゴジラ第1作のストーリーを引き継いだ単独編だったが、ゴジラシリーズ以外の怪獣が日本を襲ったという世界観でも成りたっていた。モスラやガイラも実在する世界なのである。
 
 今回は前作の続編にモスラをからませ、何と映画「モスラ」の主役だった中條博士が登場するという。映画『モスラ』の後日談的要素を持つ。ということは「モスラ対ゴジラ」にメカゴジラ(機龍)をからませたわけか。
 
 ゴジラシリーズは伝統があり、なおかつかつてのファンにも支えられていることもあって、ある種サービスのつもりで昔の映画のキャラクターや俳優を登場させるが(それがまた話題になるのだが)、いい加減やめたらどうか。過去の名作、傑作に対する冒涜でしかない。子どものころ夢見た世界、自分の中で完結した世界をこわさないでほしいのだ。  

 前作では機龍に組み込まれた〈ゴジラの骨〉の存在がファンに不評だった。僕はそれほど気にならなかった。つまり第1作のゴジラと「ゴジラ×メカゴジラ」における1954年に上陸したゴジラとは別物という認識なのだ。  
 たとえば、「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」は「フランケンシュタイン対地底怪獣」の続編的意味合いがあるものの、実際はリンクしていない。  
 同様に「ミレニアム」以降のシリーズで描かれるゴジラ最初の日本上陸(1954年の物語)はそれぞれの作品における設定であるだけで、第1作「ゴジラ」ではない、というのが個人的な考えなのである。前作に登場する初代ゴジラは最初で最後の武器によって抹殺されたが骨は海底に沈んでいたのだろう。だからどう描かれようと第1作「ゴジラ」の世界にゆるぎはない。まあ、僕だけの勝手な思い込みといえばそれまでだけど。
 
 前作の回想で登場したモスラとガイラも過去のライブフィルムが使用されているとはいえ、考え方はまったく同じ。あくまでもモスラやガイラという怪獣だけがリンクするだけで、物語世界まで侵食しない。今の若い人がモスラやガイラに興味を持って、ビデオで観直し「こういう物語なんだ!」と感動してもらえればうれしいが。  
 ところが本作でモスラが登場するとなると話は別だ。当然ストーリーは映画「モスラ」の続編となる。主人公は中條博士の甥(特生自衛隊整備士)で、映画「モスラ」に引き続き中條博士自身も再登場する。過去と今を結ぶためつじつま合わせにきゅうきゅうとなる展開は十分予想できる。こういうのはファンサービスとはいわない。  
 もしゴジラとモスラを戦わせたいのなら、「モスラ対ゴジラ」を本当の意味でリメイクすべきなのだ。
 シナリオに横谷昌宏が加わっていることに期待が持てるものの、今度こそゴジラを見捨てるときがきたかとも思った。  

 物語は「ゴジラ×メカゴジラ」の1年後が舞台。ゴジラとの戦いで損傷した特生自衛隊の機龍(メカゴジラ)の修復をめぐって、神の領域を侵す武器は今すぐ廃棄してほしいと要請してくる小美人(モスラ)、ゴジラ再襲撃に備えて武器は必要と主張する政府にはさまれて苦悩する中條博士(小泉博)&甥(金子昇)が描かれる。

 太平洋上に出現したゴジラは機龍に呼び寄せられるかのように一路日本に向かい、東京を襲撃。そこにモスラ成虫が飛来し、激闘が繰り広げられる。小笠原諸島の某島でモスラの二匹の幼虫が生まれ、やがて親モスラに合流するが、親モスラはゴジラの熱線を浴び、死滅。政府は機龍出撃の決断をくだす……。  

 この映画、さまざまなテーマが詰め込まれすぎている。もうちょっと焦点を絞れば傑作になりえたかもしれないと残念に思う。  
 「機龍を廃棄したら(ゴジラの襲撃に対して)モスラが日本を守る」という小美人のメッセージから予想できる展開。「ガメラ2」の時、朝日新聞のバカな記事に反発した自分がいうのもおかしいが、これって国防・軍備をめぐる日本とアメリカの関係にまんまあてはまる。たかが映画なんだからそこまで追求しなくても、ゴジラに対して誰が国を守るのかという問題に機龍出動を推進したい政府と反対する野党(マスコミ・知識人)の攻防が描ける。これは前作でないがしろにされた点でもあった。
 
 「ゴジラ×メカゴジラ」の続編を謳うのであれば、前作のラストから考えて主人公は女性パイロット茜(釈由美子)が再登場しなければおかしいではないか。引き分け(悠然と海に帰っていったのだからどうみたってゴジラが勝ったとしか思えないのだが)なら、もう一度戦いたいと思うのは当然だろう。
 にもかかわらず、間単に米国留学なんて設定になっている。釈由美子側のスケジュール問題だろうか(「スカイ・ハイ」と撮影時期が重なった?)。最初から女性ではなく男性を主人公にと考えたのなら、吉岡美穂の先輩に釈由美子を置くべきだろう。
 とはいいながら整備士を主人公に持ってきたのは悪くない。しかし金子昇には任が重すぎたと思う。機械を誰よりも愛する、ある意味〈メカおたく〉の中條はやはりそれなりに演技力のある若手俳優を起用すべきだ。この整備士と整備からパイロットになった女性パイロット(それにしても吉岡美穂はパイロットに見えなかった)およびゴジラ撃退に命を賭けるタカ派の男性パイロットとの関係も深く描けるだろう。個人的にはこの3人の関係をもっと見たかった。前線部隊(パイロット)と後方部隊の協調関係、整備の仕事がどういうものか、具体的な描写もほしかった。

 手塚監督は過去のいいと思った描写は臆面もなく自作に取り入れる人だ。冒頭のモスラと空自のジェット機のシーンは「ガメラ3」そのままだし、東京湾に出現するカットは「怪獣総攻撃」(もとはUSゴジラ)。とても素直な性格なのだろう。
 モスラの造形、その飛翔シーン、幼虫の動き、口から吐く糸等、オリジナルに忠実になって好感を持った。ただし、基本であるインファント島がでてこないのは何故か。原住民など出せるわけがない。昔ながらの設定でモスラが存在するなんてことは今では通用しないことがよくわかる。
 にもかかわらず「モスラ対ゴジラ」のストーリーをなぞるように、小笠原諸島でモスラの卵を孵化させ(台詞で理由を説明しているが)、それが双子の幼虫だったり、ゴジラに倒されて海岸に漂着する謎の巨大生物がカメーバだったりと、マニアぶりを発揮するのはどうなのだろう。まあカメーバのシーンはリアルだったし、その名称についてのパイロットが突っ込む台詞には笑ったけれど。  

 いろいろ不満はあるものの、全体の印象として、とにかく夢中になってスクリーンを見つめていた、わくわくする興奮があったという点で、手塚監督の3作の中で一番気に入ってしまった。
 まずゴジラの襲撃~モスラや機龍との攻防戦を、夜をはさんだわずか二日間に限定した構成がいい(これも「ガメラ2」の影響だろうか)。朝陽が機龍の目に反射し、それまで目立たなかった赤のラインが強調されたところにぐっと来るものがあった。この描写でその後の〈そんなバカな〉的展開に拒否反応が起きなかった。それよりも機龍内にとり残された中條の、脱出できるかできないかにかなり興奮した。
 ゴジラシリーズでこういう感覚になったのは久しぶりのことだ。このシークエンスにはよく考えればおかしなこと(描写)はあるのだが、そんなことはこれまでのゴジラ映画では当たり前になっていることだし、とにかく気にならなかった。
 大きな声ではいえないが、中條博士の孫(男の子)がゴジラ上陸で誰もいなくなった小学校の校庭で、一人もくもくと机を運んでいるくだりで、すぐに何をしているかわかってウルウルきてしまった。そういえば前作では少女とヒロインの会話に背中がムズムズしえ仕方なかったのに、本作の少年と主人公の会話は素直に聴いていられた。
 前半部分の空自や海自がゴジラ探索や攻撃に活躍するシーンは大味ではあったが、これまで観てみたいシーンだったのだ。国会議事堂の崩壊も力が入っていた。  
 大島ミチルの音楽も堂々たるものだ。

 来年はゴジラ生誕50周年の記念すべき年だという。だからといって安易に記念映画を作ってほしくない。今度こそ、過去のシリーズの呪縛、第1作とは切り離し、今なぜこの時代にゴジラが出現するのか、出現したら日本はどうなるのか、人々はどう反応するのか、リアルに、具体的に描いてもらいたい。ゴジラがいて、敵役怪獣がいてバトルを繰り広げるという展開にはほとほと飽きた。

 最近つくづく思うこと。
 僕は怪獣の登場する映画は大好きだが、怪獣ファンではない。

     ◇

2004/12/04

 「ゴジラ FINAL WAR」(日劇PLEX)

 上映までの時間つぶしに入ったカフェのカウンターで、隣に座った60歳前後のおじさんがこの映画を観てきた帰りだと知った。財布からチケットの半券をとりだしてこちらの顔を意識しながら何やらぶつぶつ言っている。別に話したくもなかったけれど声かけないと申し訳ない状況だった。
「映画、どうでしたか?」
「いや~、面白かったよ、怪獣が何匹も出てきてさあ、すごい迫力なんだ」
「毎年、ゴジラ映画をご覧になるんですか?」
「観るよ」
「これまでの作品と比べていかがですか、今回の作品」
「この前、前作がTVで放映されたけれど、今回の観たら、かすんじゃうよね。すごい作品だよ、今度のは!」
 おじさんは携帯にメールが入ってあわてて出ていった。興奮気味の感想を聞いても僕の中にあるモヤモヤは晴れなかった。

 ゴジラ生誕50周年記念かつシリーズ最終作としてこの映画が発表された時からこれっぽっちも期待なんかしていなかった。なぜなら僕が怪獣映画、とりわけゴジラ映画で一番観たくない要素がテンコ盛りなのだ。

 子どもの頃、父に連れられて観る怪獣映画に必ず感動していた。そんな僕がエンドタイトルが出ても何の感慨もわかなかったのが「怪獣大戦争」だった。X星人に操られたキングギドラにゴジラとラドンが戦いを挑み、見事撃破する物語なのだが、前年に公開された「地球最大の決戦」と同じような話なのが気になった。前作に登場して人間の敵だったゴジラとラドンをとりあえず仲間にしてキングギドラと戦うモスラ(&小美人)の存在が無視されたことも許せなかった。「シェー」をして観客に媚びるゴジラなんてもってのほかだ。

 理由はいくつもあるものの、根本的な要因はゴジラ映画に宇宙人が登場する設定だったと思う。怪獣という土着的な生物に宇宙人や円盤は似合わなかった。スクリーンに人間体の宇宙人や円盤がでてくるととたんに白けてしまう。特にゴジラ映画に対してその思いが強かった。だいたい三大怪獣がタッグを組んでも倒せない圧倒的な存在感を見せつけてくれたキングギドラがX星人の手先になっている姿なんて見たくない。

 ゴジラはこのあと「南海の大決闘」で主人公側の人間に「あいつも悪い奴じゃないからな」とお墨付きをもらってから、一気にアイドル化していく。
 「ゴジラの息子」でミニラが登場したのには頭を抱えた。「オール怪獣大進撃」では主人公の少年と等身大のミニラが会話を交わし、必要に応じて巨大化したりする。子どものためを考えて大人が作った映画に対して当の子どもが面白いと喜ぶはずがない。確かに大学生になってオールナイトで観た「ゴジラの息子」は動物映画の観点からすればなかなかの出来だった。駄作だと決めつけていた「オール怪獣大進撃」も親になってみればその価値がわかってくる。
 しかし、だからといってゴジラシリーズでその手の映画を認めるかというと断じて「NO!」と叫びたい。ゴジラがゴジラらしく、怪獣が怪獣らしかった昭和30年代から40年代にかけて公開された作品(リバイバルを含めて)に触れた少年時代の目を失うことはできないのだ。

 昭和40年代半ば、日本映画の斜陽が叫ばれ、特撮怪獣映画はアイディア的にもビジュアル的にも衰退期に入っていた。そうした状況下で製作されたのが、これまでの怪獣たちを一挙に登場させた「怪獣総進撃」だ。ゴジラを頂点とした怪獣たちが地球征服を狙う宇宙人が操るキングギドラと戦う怪獣映画総決算とでもいうべきもの。
 後に知ったことだが、東宝はこの映画でゴジラシリーズに終止符を打つ予定だったという。ところがこれが予想以上の大ヒットになって、新たに「ゴジラ対ヘドラ」以後の人間の味方になった低年齢層向けゴジラシリーズを量産していくことになるのである。

 「怪獣総進撃」はお馴染みの怪獣たちがこれでもかというくらいスクリーンに登場してきて喝采を送った覚えがある。しかし内容からすると併映の「海底軍艦」(リバイバル)の方が数段面白かった。怪獣たちが太平洋の某島に集められて人間に飼育されている設定(なぜかそこにはインファント島の守り神であるモスラもいるのだ)、キラアク星人に操られるキングギドラの存在(それも撮影で使いまわしされた着ぐるみの状態が悪く、かつての精彩が全然感じられないシロモノ)、怪獣たちが手を組んで敵と戦う構図、ゴジラとミニラが同ショットに写り込む嫌悪感……

 「怪獣大戦争」のプロットに「怪獣総進撃」のケレンを加えたような「ゴジラ FINAL WARS」が歓迎できない映画であることがわかるだろう。特にこの数年着ぐるみ怪獣の肉弾戦に辟易している者としては怪獣が十数体も登場してくると知ってのけぞった。怪獣を出せばいいってものでもないだろう。
 モスラ、アンギラス、ラドン、マンダ、エビラ、ミニラ、クモンガ、カマキラス、ヘドラ、ガイガン、キングシーサー……。
 まず選出基準がわからない。ヘドラやキングシーサーなんて、映画のテーマと関わってくるので再登場なんて考えられない。第1作以外なかったことによって構築された平成、新世紀シリーズでなぜにミニラなのか? モスラがまたまた登場である。単なる端役なら出る意味がないのに。

 前述の映画以外にも主要メカにゴジラとは関係ない世界観で成り立つ轟天号(「海底軍艦」)を登場させる始末。過去の遺産だけで組み立てられたストーリーは唖然呆然の噴飯もので、おまけに主人公コンビにTOKIOの松岡昌宏と菊川怜。あくまでも個人的にだが、どちらもこちらの生理を逆なでさせるタレント(それでも松岡の演技力は買っていますが)で文句を言う気力もなくなった。
 こうなれば、ゴジラ映画、怪獣映画に対する熱い思い入れはきれいさっぱり捨て去り、単なる一観客として北村監督の見世物興行を甘受するしかない。期待はX星人に扮する北村一輝の怪演ぶりだけ。
 果たして北村ワールドを楽しむことができるのか、否か。

 近未来。過去何度も出現しては人類を恐怖に陥れた怪獣を迎撃するため地球防衛軍が組織された。防衛軍の中で特に異彩を放つのが特殊能力を持つミュータントたちが所属する特殊部隊〈M機関〉である。その一人が松岡昌宏であり、彼が護衛するのが南極で発見された怪獣のミイラの研究で国連から派遣された女科学者の菊川怜。
 突然全世界に怪獣が出現した。あまりの数に防衛軍は苦戦する。そこにX星人(伊部雅刀&北村一輝)が現れ、たちどころに怪獣たちを消し去った。彼らは地球人と手を結ぶことを申し出る。世界はその提案を受け入れるが、実はこれこそが彼らの罠だったのだ。松岡たちの活躍により正体を見破られたX星人は消し去った怪獣を再び全世界に出現させ、人類に降伏を迫るのだった。絶体絶命の危機の中、轟天号の破天荒艦長ドン・フライは南極に眠るゴジラを復活させ、X星人の野望に敢然と立ち向かうのだった……

 案の定ストーリーにオリジナリティーの欠片も感じられなかった。底は浅いし、奥行きもない。
 21世紀の時代にX星人のネーミングもないもんだと(同じことは轟天号にいえる。思い入れとは別に)、あまりのベタな設定や展開のオンパレードでお話そのものには最後までノレなかった。
 時間や距離の概念が皆無。伏線もディティール描写もあったものではない。結局ゴジラ以外の怪獣はあくまでも引き立て役でしかなく、単なる記号的存在。懸念していたモスラ(&小美人)の登場もまったく意味のない扱い。すべては北村監督お得意のテンポいい(良すぎる?)展開のために犠牲になった感がする。

 ではつまらなかったというと、これが不思議とそうではない。たまにバカ笑いしながら、最後まで飽きることなく観ていられた。バカ映画を楽しむ感覚とでもいうのだろうか。
 松岡とケイン・コスギの格闘演習、バイクチェイス、エビラとM機関とのバトルにはけっこう興奮させられた。やはりアクション描写で名を馳せた監督のことだけはある。アクションを魅せるカッティングには才を感じた。バイクチェイスのシーンなんて平成仮面ライダーで見せてくれたら最高なのに……。

 北村一輝も期待どおりの演技だった。もともと日本のホアキン・フェニックスとして注目していた俳優だが、今回はまるで「フィフスエレメント」のゲーリー・オールドマン。映画の陰の主役は彼だった。
 菊川怜や水野真紀のおみ足をやけに強調したサービスカットもいい(が、すでに金子監督が「ガメラ2」の水野美紀でやっているよね)。
 しかしそのほかはもう古色蒼然といった感じ。轟天号や円盤内のセットなんて昔の特撮映画そのものだし、演出にも何の新鮮味もない。
 全編どこかの映画で見た映像で、普通なら怒りがわいてくるはずなのだが、バカ映画だとその徹底した模倣を逆に感心し許せてしまう。ホント、人間の感情って不思議ですね。

 冒頭で旧轟天号とゴジラの戦いがあったはずなのに、その後ゴジラ映画を観ていることをすっかり失念していた。
 このままミュータント戦士とX星人と怪獣のバカ話で終わってもいいのでは? 格闘技のことは知らないけどK1の選手だという轟天号の艦長、けっこう演技が上手いじゃないですか。よくない? やはり主役はゴジラですか。嗚呼!

今度のゴジラの造形、その顔にははなはだ違和感がある。まるで鼠なのである。俊敏に動き回るという設定だからモデルが鼠なのか?
 後半ゴジラが復活して、怪獣たちとのバトルを繰り広げる。北村監督によるとこれまでのゴジラ映画とは違うスピーディーなバトル、今まで見たことがない〈怪獣バーリートゥード〉を見せるとその意図を語っていた。期待しないといいながら、実はそのバーリー何とかかんとかがどんなものか、着ぐるみ肉弾戦にうんざりしているロートルファンの、それこそ目から鱗が落ちる状態にさせてもらえたら、怪獣バトルにわずかな光明を見出せたらなんて考えていたのだが、何のことはない、単なる怪獣の擬人化プロレスだった。

 基本である怪獣の巨大さを見せる気はさらさらない。ハリウッド製の「GODZILLA」にはいろいろ文句をつけたいところはあるけれど巨大感だけは突出していたではないか(新作の「スカイ・キャプテン」でもニューヨークに出現した巨大ロボットの撮り方には工夫が施されていた)。なぜこういうところも模倣しないのだろうか。
 山中の平原におけるゴジラとキングシーサー、アンギラス、ラドンのバトル。対峙するゴジラとキングシーサーのショットで、レールを使用した移動撮影を行っているが、人間の視線で地面すれすれで捉えているのはいいとして、ゴジラの真横から一気にキングシーザーの真横まで移動してしまうのはあまりに安易すぎる。仮に間が500mあるとして、そんな早く移動できるものか。しょせんミニチュアセットの着ぐるみなのだ。それがクライマックスになるにつれ顕著になっていく。どこにカメラを設置したのか理解不能の中継映像も健在だった。

 1970年代完全に子ども向けに制作されたゴジラシリーズで観て育った世代が考える理想の怪獣映画がこれなのか。特撮の世代差を痛感させられた。
 「ゴジラ対ヘドラ」では放射能火炎を吐きながら後ろ向きに空飛ぶゴジラ。「ゴジラ対ガイガン」ではマンガの吹き出しを使ってアンギラスと会話するゴジラ。いくら特撮、怪獣好きでも中学生になると低年齢志向のゴジラに興味はなくなっていった。それでも後年ビデオで観てはいるのだが、1作だけ封印している作品がある。何の説明もなく等身大から巨大化するジェットジャガーというロボットが登場する「ゴジラ対メガロ」だ。
 よりによってこの一番観たくない要素を今回一番登場してもらいたくなかったミニラに流用してしまうとは……。事前に知っていたからよかったが、そうでなかったらラストで椅子から滑り落ちていただろう。

 北村監督の怪獣映画に対する思い入れのなさを嘆いても仕方ない。北村監督なりのゴジラ映画を構築しただけだろう。要はプロデュースサイド(東宝)の問題なのだ。
 東宝にはゴジラシリーズに対する明確なコンセプトというものがないのだろうか。

 1984年に復活した際の仕切り直しとは何だったのか。「ゴジラvsスペースゴジラ」では主要キャラクターの柄本明に「あいつも悪い奴じゃないから」と言わせる感覚。「南海の大決闘」と同じ台詞が平成シリーズに出てくるとは思わなかった。そういや同作にはリトルゴジラなんていうかわいらしいゴジラの息子くんが登場してましたっけ。昭和シリーズ後期の堕落からの脱却を目指して出発したはずなのに結局同じ轍を踏むはめになった。
 再度仕切り直ししたミレニアム以降の作品でも、結局過去の遺産に寄りかかってばかりいる。

 受ければいいのか? 観客が動員できれば何やっても許されるのか?
 「ゴジラ FINAL WARS」はあくまでもゴジラシリーズの中の異色作の位置付けだろう。だったら許せる。昔みたいに尖がっていないから、どんなゴジラ映画があってもいいと思う。ただしそんな映画に50周年記念なんて冠をつけたり、最終作だなんて宣言してほしくない。

 これまで脚本家や監督の人選であれこれ言っていたけれど、もしかするとゴジラ映画に本当に必要なのは真のプロデューサーなのかもしれない。

     ◇



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プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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