遠い北海道からジンギスカンさんからの質問です。

 keiさんは赤い鳥のコンサートには行かれなかったとの事ですが、僕はね、未だにモヤモヤしていた気持ちが赤い鳥にはあるんですよ。
 実力があるグループだったのにフォークでもロックでも歌謡曲でもなく、日本で活躍を目指していたのか、海外に活躍の場所を求めていたのか、村井邦彦さんをはじめまわりの方々が色々いじくり過ぎた感があるんです。だからしばらくは各自の作詞・作曲の歌も出てきませんでした。山上・村井コンビの曲ばかりでしたね。アルバムの曲の中にメンバーの作詞または作曲した作品があれば新鮮な感じが4ものです。「泰代さんも曲作るんだ~」という状態ですね。

 なつかしいフォーク番組にも赤い鳥は出てきません。拓郎、かぐや姫、アリス、チューリップ、六文銭、オフコース、などなどが良く出ますが、赤い鳥は取り上げられないんです。メジャーでないのか?

 そんな事をずーっとモヤモヤの気持ちで過してました。

     ◇

 リーダーの後藤さんに他のメンバーを圧倒する楽曲作りの才能が集中していたら……。 
 甲斐バンドの甲斐よしひろ、チューリップの財津和夫、サザンオールスターズの桑田佳祐のような存在だったら、と思うことがあります。音楽的に完全に他のメンバーを牽引していく存在だったら、赤い鳥は解散しなかったのではないのかなぁと。いや、最終的には解散するのでしょうが、別の道があったような気がするんです。
 後藤さんが、東京のマスを対象にした芸能活動に嫌気して関西に帰ろうと、関西に帰って独自の活動を始めたいとメンバーに伝えたとき、平山さん以外は首を縦に振らなかったといいます。

 逆の見方をすれば、新居さんのヴォーカルが、他のメンバーを圧倒していたら……。
 というと語弊があるかもしれませんね。新居さんのヴォーカル(平山さんとのユニゾン含む)+混成ハーモニーというスタイルが徹底されていたら、つまり、ペドロ&カプリシャスや平田隆夫とセルスターズのような感じ、というのでしょうか、そんなスタイルで、後藤さんはリーダー的素質のみ持ち合わせ、ヴォーカルは新居さん、平山さんのみ、楽曲は完全に山上路夫・村井邦彦コンビに委ねられて、メンバーのオリジナルはアルバムやコンサートで披露される程度に活動していれば、ということです。
 新居さんがいなかったら赤い鳥の存在の意味がないのですから、メンバーの意識も変わっていたのかなあ、と。
 でも、赤い鳥は単なるコーラスグループになっていたでしょうね。

 デビューにあたって、村井さんは、新居さんの声とメンバーのハーモニーセンスに惚れ込んでいたということもあって、いわゆるポップスで、赤い鳥を世間にアピールさせたかったんじゃないですか。
 僕が小さかったとき、フジテレビのヒットパレードでいわゆるオールディーズの数々の名曲を耳にしました。皆、日本語で歌っていました。
 昭和40年代半ば、洋楽を英語で歌うというのは画期的だったのはないでしょうか?

 村井さんには赤い鳥がフォークグループだなんて意識はなかったと思うんですよ。アマチュア時代はいざ知らず、プロデビューしたらそんなグループじゃないと。世界に羽ばたく逸材なのだと。だから自分のプロデュースで赤い鳥の音楽性を牽引していこうと考えていたんじゃないですか? 最初は。
 フォークに拘っていた後藤さんは、どんな気持ちだったのでしょうかね。

 僕は当時の赤い鳥のコンサートを観たことがないし(最後まで、ですが)、どんな内容だったのか、想像するしかないのですが、コンサートは、後藤さんに主導権があったんじゃないかと思っています。
 後藤さんが、この前の「赤い鳥、紙ふうせんアマチュアコピーバンド大会」の途中寸評でもおっしゃっていましたが、歌にはレコード用に録音するものがあると。
 赤い鳥時代、「翼をください」も「忘れていた朝」も「窓に明かりがともるとき」も後藤さんにとってはレコード用の歌だったのではないでしょうか。あくまでも僕個人の想いですけどね。
 コンサートスタッフに、たぶん照明の佐野さんだと思いますが、後藤さんは言われたそうです。「コンサート用の楽曲を作れよ」
 ステージだと、新居さん、平山さんのヴォーカルって、赤い鳥の一つの要素くらいの印象ではないですか?

 赤い鳥の初期は、後藤さん自身が語っているように、曲作りの能力がなかった、また、作りたくても、時間がなかったのでしょう。
アルバム「竹田の子守唄」のころから、やっとメンバーの曲も取り上げられるようになったと思うんです。
 
 後藤さんとしては伝承歌路線、オリジナル路線を推進したかった。村井さんは反対しなかった。「ミリオン・ピープル」は通常のコンサートのスペシャル版だと思いますが、ほぼオリジナルじゃないですか。レパートリーとなっているのは「翼をください」くらいで。
 でも、村井さんはポップス路線をやりたいし、そこに共鳴しているのは山本夫妻、大川さんだったわけで。

 ですから、赤い鳥が解散して、紙ふうせんが赤い鳥(の音楽)を引き継いだ印象がありますが、村井さんが求めた赤い鳥のスタイルはハイ・ファイ・セットだったのでしょう。

 もし、赤い鳥が74年に解散していなければ、「書簡集」みたいなオリジナルアルバムが、以降リリースされたと思うんです。

 赤い鳥は、才能がメンバー個々に分散していたんです。
 
 で、以前書いているけれど、才能が分散していて、二つの音楽的な要素が混ざり合っていたからこそ、赤い鳥の音楽は魅力だったのでしょう。
 バンド形式で、男女混声の、コーラスワークが抜群なグループ。メンバーの誰もがシンガーソングライターそして楽器演奏者。
 そんなグループはそれ以前にも以後にもいませんよね。

 グループの解散はしかたなかったことだと思います。村井さんも当時そう書いていましたよね。グループの解散は世の常だと。
 ただ、解散後に再結成が一度もないというのが、残念でした。
 いえ、一度も再結成しないということも、すごいポリシーを感じますし、それはそれで筋が一本通っていると思いますよ。だって、再結成って、結局のところ元メンバーのあれやこれやに関する思惑、ゆえの打算でしょう。はっきり書くと問題があるからボカしました。

 当時だって、赤い鳥という母艦は残しておいて、それぞれ紙ふうせん、ハイ・ファイ・セットで活動するという手もあったかもしれません。事務所から休みをもらって、後藤さんと平山さんは赤い鳥とは別個の活動をしていたわけですから。
 でも、そういうのを嫌うのが後藤さんなんじゃないですかね。後藤さんにしてみれば、早く本当に自分がやりたい活動をしたい。そう願ったからこそ事務所を辞めてしまうわけだし。皆が共鳴してくれていたら、赤い鳥ごと事務所から飛び出ていたのかもしれません。
 だからこそ、安易な再結成などしたくなかったんじゃないかと思っています。あくまでも僕個人の勝手な推測ですけどね。

 90年代後半、ハイ・ファイ・セットが例の事件で解散し、山本潤子さんがソロで活動するときが、赤い鳥の再結成が叶うかどうかの分岐点だったのではないでしょうか。

 サッカーW杯の応援歌として「翼をください」が話題になって、ニュースステーションで披露されたときのゲストが山本潤子さんでした。あのとき、TV局としては赤い鳥の再結成を画策して、紙ふうせんの事務所にもオファーがあったと聞いています。後藤さんは一蹴しました。TV局主導の企画なんてという思いだったのでしょうか。バード企画にしてみたらせっかくの脚光を浴びる、再デビューのお膳立てを潰されたわけです。

 潤子さんは「翼をください」をきっかけに歌手仲間からの後押しもあって「竹田の子守唄」や「赤い花白い花」を歌いだします。
 スタイルはアコースティックギターの弾き語り。まあ、時代がそうだからということもあるのでしょうが、あれって思ったんです。赤い鳥時代の歌は「竹田の子守唄」や「赤い花白い花」でしょう、それって後藤さんの路線でじゃないですか。
 まあ、潤子さんのリードヴォーカルだからうたうのは当然だとは思いますが、「忘れていた朝」や「窓に明かりがともるとき」だって潤子さんがうたっていた赤い鳥を代表する曲ではないですか、と。
 
 何を言いたいのかというと、このあたりで潤子さん(&山本俊彦さん)と紙ふうせんの歩み寄りがあってもよかったのに、逆に壁ができたような感じがするんです。

 当初、赤い鳥の再結成を拒んでいたのは紙ふうせんサイドだったと思うんです。「まだその時期ではない」という内容の後藤さんの言葉を何度かメディアで見たことがあります。ただし、関西における重要なイベントで、企画に後藤さんが絡んでいる場合、ハイ・ファイ・セットや潤子さんがゲストに呼ばれることがありました。
 で、ある時期から潤子さんサイドのガードが固くなりました。何度も言いますがあくまでも個人的な感覚ですよ。

 紙ふうせんは赤い鳥解散後もずっと「竹田の子守唄」「翼をください」をうたってきました。「赤い花白い花」も平山さんの歌唱指導つきでたまに披露されます。
 対して、潤子さんはハイ・ファイ・セット結成後、これらの歌はステージで取り上げなくなった(と思います)。ソロになってうたいだした経緯があります。ハイ・ファイ・セットの時代からうたっていたのなら違うのでしょうが、この十数年のブランクのあとというのが壁の原因だじゃないかと推測しています。
 



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取り上げて頂き、ありがとうございます。PPMのコピーをしながらプロの世界に入ったジローさん方は切り替えが難しかったのではと考えてました。ファーストアルバム、セカンドアルバムは私は買いませんでした。英語の曲ばかり、他のコピー曲ばかりの感がありましたので、実際に聞く事が出来たのは赤い鳥コンプリート・コレクションが出来てからでした。「竹田の子守唄」が購入した最初のアルバムでした。わかりませんが、村井氏も赤い鳥をどのようにしていくのかは意外にもジローさんの考えがそぐわなかったので手こずったのではないでしょうか?ミリオンピープルの村井メドレーのMCでもふれていますよね。もっともっとこのあたりがかみ合ったなら、この当時日本初の全米デビューがあったと思うし、ABBA,カーペンターズ、S&Gまではいかなくても日本を背負っていくグループになったように思います。時代的に10年早かったかも・・というのが私の意見です。プロデビューしてから、労音主催のコンサートで年間200本を超えていたと思いますが、全国を回られていたと記憶してます。当時中学生の私にはプロはすごいという印象でした。そういう意味で今度のALFA MUSIC LIVEは楽しみですよね! 
ジンギスカンさん
返信が遅くなって申し訳ありません。

ジンギスカンさんは、赤い鳥についてデビュー時から知っていたんですか?

1st、2nd、3rd、単純に聴いていると、いいですよ。もし、デビュー時の赤い鳥のファンになっていたら、その後の日本語の、オリジナル曲を歌う姿に対してどう感じたことでしょう。
当時、ユニットという形式があれば、赤い鳥と紙ふうせんの活動が同時にできたのに、と思うのですが、そういうの、後藤さん、嫌いかもしれませんね。
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プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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