みなさんはおやつの語源をご存知でしょうか?

 江戸時代は日の出と日没を基準に日中と夜が六等分され、正午が九つ、午後2時が八つ、午後4時が七つ、そこから八つに仕事を休んでとるお茶やお菓子をおやつというようになったんです。
 今では午後3時に食べるようになりましたが、本来は午後2時だったんですね。

 で、この午後2時に休憩をとるのは人間の生活リズムからいっても理想的なのだそうです。
 というのは、この時間に一番眠くなるからなんです。

 人間は、原則8時間眠り、残り16時間を起きて過ごしますが、続けて16時間起きているのは大変なことで、真ん中あたりで一度頭と身体をリフレッシュしないといけません。
 人間は朝起きてから2時間おきに眠気がやってくるそうです。午前10時、正午、午後2時、午後4時が眠いとのことです。休憩が必要になったと脳が察知し、身体の活動にブレーキをかけると考えられます。
 そんな時間に仕事をしても能率はあがりません。そういう状態で頑張っても、イライラしたり、猜疑心が強くなったり、自信がなくなったりするそうです。
 ですから、休憩時間を作っておやつを楽しむのはとても合理的なんですね。

 また、昼寝も効果的だそうです。
 ただ長く眠っていてはマイナスで、10~15分でいいそうです。
 時間がきたらソファに移るか、そのまま机に突っ伏して短い時間眠る。すると頭がすっきりして作業のうっかりミスも減らすことができる。
 と、広島大学総合科学部の堀教授が語っております。




2001/06/16

 「デンジャラス・ビューティー」(丸の内ルーブル)  

 男が女になったり女が男になる話に興味があるってことは何度か書いていて、新井啓介って変態じゃないかと思われているのではないかと時々心配している。いわゆるメタモルフォーゼの楽しさというものなんだけど。
 同じ理由で少女が女性になる瞬間、ボーイッシュな女の子がふと見せる女性らしさにたまらないエロティシズムを感じる。

 FBIの中で男勝りの女性捜査官(サンドラ・ブロック)がミス・コンテストに潜入捜査するため、短期間で絶世の美女に変身させられるというこの映画を予告編で知った時、その変身ぶり、エロティシズム見たさに前売券を買ってしまった。
 日本でも醜女が美女に変身するTVドラマがよくある。美人女優がメーキャップでブスになる方法だ。この映画のサンドラ・ブロックは素顔と演技で色気のない女性捜査官を体言している。 ストーリー自体はたわいもないサスペンスコメディである。

 世間を騒がす爆弾魔からミスコンテスト会場に爆弾を仕掛けるとの予告がありFBIが潜入捜査を開始する。その捜査官に任命されたのがサンドラ・ブロック。ミスコンで数々の優勝者を輩出したメイキャップ・アーティスト(マイケル・ケイン)の指導で一夜漬けで世紀の美女が誕生するわけだが、心まで女らしくなるわけがなく、外見と内面のギャップ、それによって巻き起こるドタバタが笑いを誘う。  

 期待していた以上でも以下でもない映画、でも楽しい映画、アメリカ映画らしい映画といえる。  マイケル・ケインの十八番、おかまっぽいアーティストぶりがいい。  

 映画館をでてからポスターを見て知ったのだが、ミスコン理事長にキャンディス・バーゲン、司会者にウィリアム・シャトナーが扮していた。まったく気づかなかった。

     ◇

2001/06/30

 「A.I.」(丸の内ルーブル)  

 急逝したスタンリー・キューブリック監督が次回作に予定していた作品が未来を舞台にした人間と少年ロボットとの愛の物語「A.I.」と知ってとても残念な思いがした。これはまさしくキューブリック版アトムではないか。「2001年宇宙の旅」の美術デザインを当初手塚治虫にオファーしたキューブリックの、21世紀初頭を飾る作品としてまことにふさわしいものであり、「時計仕掛けのオレンジ」以降久々のSF作品でもある。キューブリックの未来造形の質感、色彩感覚を堪能できると考えたからだ。

 原作のブライアン・W・オールディス「古びた特製玩具」(望月明日香 訳)は昨年暮れに読んだキューブリック研究本「ザ・キューブリック」(フットワーク出版)に収録されていた。掌編のような短編で、これをどう肉付けしてSF大作にするのか、キューブリックのことだから原作とはテイストの違う、ほとんどオリジナルに近い内容になるのではないかと逆にそれが楽しみに思えただろう。
 人間を描くことにほとんど興味を持たないキューブリックに人とロボットの愛をテーマにした映画が撮れるのか、という不安もあるにはあったけれど。  

 そんな未完の大作「A.I.」をスティーブン・スピルバーグ監督が引き継ぐことになった。生前キューブリックは映画の題材をスピルバーグに向いていると判断し、スピルバーグに演出をさせ自身はプロデューサーを担当する意向もあったと何かの本に書かれてあった。果たしてそんなビッグプロジェクトが成功したかどうか。資質が極端に違う巨匠が並び立つわけがない。  
 そんなわけで公開が近づくにつれ話題が高まっているスピルバーグ監督作品「A.I.」には何の期待も抱いていなかった。個人的には「A.I.」より手塚治虫の初期の傑作をアニメーション化した「メトロポリス」の方が興味深かった。同じ未来世界、ロボットが主人公の物語なのに超大作「A.I.」の陰に隠れてしまった感があり、手塚ファンとしてははがゆくてしかたないのだ。  

 だからこの日は本当は「メトロポリス」を観る予定だったのだ。2週間に一度通っている有楽町のクリニックに行った際ついでに観ようとしたものの有楽町・銀座界隈では上映が終了していて、たまたまのぞいたガード下のディスカウントチケット屋に「A.I.」の前売券があったので、そのまま直行したというわけである。 

 温暖化で南極の氷が溶け地球の大都市の多くが水面下に沈んだ未来、ロボット工学は驚くほどの発達をみせ、外見は人間と変わらないロボットが作られている世界。  
 人を愛することができる少年ロボットがある夫婦に授けられるが、問題を起こして捨てられてしまう。母親に愛されたい、愛されるには人間にならなくてはいけないと願う少年ロボット・デイビットはピノキオが〈青い妖精〉によって人間になったことを知ると、〈青い妖精〉を捜し求めてはるかかなたへと冒険の旅にでる……という物語。  

 前半は一人息子を不治の病で失おうとしている夫婦(特に母親)とデイビットの関係、奇跡的に回復し帰ってきた息子との確執を描く室内劇が延々と続く。もしキューブリック監督だったら、この室内のデザイン、色感、シンメトリーを多用するカメラワーク等々、ドラマ以外に楽しめる要素がたくさんあるだろうと思いながらスクリーンを見つめていた。  
 デイビットが森に捨てられてからはジュード・ロウのセックスロボットの演技を堪能した。ロボット狩りやジャンクショーのシークエンスではさまざまな意匠のロボットが登場し、ビジュアル的にも目を見張る部分があるものの圧倒されることもなかった。
 大都会に舞台に移してからも、派手なデザインのビル群、建物がスクリーンを飾ってもそれほど〈センス・オブ・ワンダー〉を感じなかった。スピルバーグ映画にとっては当たり前の世界という気がする。
 
 ストーリーもわからないほどでもないけれど、何かと説明不足が気になる。  
 海に沈んだマンハッタンのビルにデイビットがやってくると「君をずっと探し求めていたんだ!」と長年少年ロボットの研究をしていたとおぼしき博士がとびだしてくるのだが、その後デイビットが人間になれない現実を悲観して海に飛び込んで自殺をはかっても博士は何の行動もしない。登場もしない。あのエピソードは何だったのか。  

 【以下これから映画を観る方は読まないでください】  

 デイビットが海の底で眠りついて2000年が経過し、映画冒頭のナレーターの正体(絶滅した地球に調査にやってきた宇宙人)がわかってからラストにむかってどうドラマを締めくくるのかとやっと姿勢が前のめりになってきた。  
 デイビットに記憶されていたデータで絶滅前の地球の様子を知りえた宇宙人は君の願いをかなえてやると言う。デイビットは「人間になりたい」と答えるがそれは無理な話。彼らに人間を再生させる能力があることを知ると母親に会いたいと懇願する。再生させてもなぜか1日しか生きられない、それでもいいのかとの問いにうなづくデイビット。  
 奇跡はすぐにやってきた。懐かしいあの部屋にやさしい母親がいた。デイビットは母親を抱きしめて言う。
「僕を愛して!僕をやさしく抱きしめて!」  
 ここで涙が一粒頬を伝わった。

 この映画は母親に愛されず捨てられた子どもがそれでも母を信じて母の愛を得る物語だった。母に捨てられた少年は母親に「愛している」と言ってもらいたい。そのためだけに2000年の年月をかけてわずか1日だけの至福を享受する。愛に飢えた少年の気持ちを考えたら一粒の涙が二粒三粒となり、ラスト幸せそうにベッドで眠りに入る母子の姿に思わず嗚咽をあげそうになった。  
 親に虐待された子どもの、それでも親の愛を求める姿に弱い。子どもたちのけなげな姿が僕の涙腺をゆるめてしまうのだ。「永遠の仔」に号泣したことは記憶に新しい。
 
 なぜ泣くのか。そんな親子の関係がわからないからだと思う。僕は親の愛を受けて育った。自分の子どもが誕生してからは同じように愛情を持って接している。子どもが生まれたばかりの頃、夜泣きに苦労したことがあった。六畳一間しかない部屋、こちらの精神がまいっている時で思わず手をあげたくなることもあった。我慢できたのは自分の子どもだからだ。この子に自分の血が流れていると思えば手なんてだせない。かわいいのである。だから近年メディアを騒がす親の児童虐待、育児放棄の問題には「なぜ?どうして?」と心痛めている。  
 ラストシーンでこうした様々な思いがよみがえってきたのだ。  

 「A.I.」のラストで僕は泣いた。では「A.I.」は素晴らしい映画か、感動作か、と問われれば素直に「はい」と答えられない。  
 常々思っていることなのだが、泣ける映画=感動作ではない。世の中には変な風潮があり、泣くという行為に特別な意味を持たせる人が多い。  
 たとえば山田洋次監督の「学校」という作品がある。TV放映された際、後半泣きながらTVを観ていたのだが、いい映画だと思わなかった。田中邦衛演じる男のあまりにも悲惨でかわいそうな生い立ちに涙したに過ぎない。  
 大事な人、愛しい人を失えば誰だって泣くだろう。それは決して感動の涙ではない。それと同じだ。
「人を泣かすことは簡単なんだ、笑わせることがいかにむずかしいか」
 TVのコメディ番組や喜劇映画を見るたびによく親から言われた言葉がバックボーンになっている。  
 いくらラストで涙を流したからといってそれが映画全体の評価にはならない。
(「A.I.」には観客を泣かせようというあざとさがない分素直に観ていられたところもある。)  

 大ヒットを連発するスピルバーグ作品に対して反発する人、所詮お子様ランチと蔑む人も多い。が、僕自身精神が幼いのか、スピルバーグ映画にはいつも夢中にさせられる。特に冒険活劇における演出力はすごい。
 酷評された「ロストワールド ジュラシック・パーク」でさえ恐怖やサスペンスをかもし出す演出は超一級だった。「ロストワールド」はシナリオが破綻していた。昔の頃に比べスピルバーグはシナリオにあまり重きをおかなくなってしまったのだろうか。「A.I.」ももう少し練る必要があったのではと思う。




2001/05/02

 「バトル・ロワイアル 特別篇」(新宿オスカー)

 「バトル・ロワイアル」が公開され大ヒットしていた今年はじめ、とあるファーストフード店でコーヒーを飲みながら読書にいそしんでいた時のこと。隣の女性たちの会話が聞こえてきた。話からすると二人は出版社に勤める編集者らしい。  
 耳をそばだてたのは「バトル・ロワイアル」の話題になった時だ。話を要約するとこうなる。映画「バトル・ロワイアル」が国会議員の上映中止要請等何かと話題になって多くの中学生が関心を抱いたものの映画は観られない。かっといって活字嫌いの彼らのこと、小説を読むのはおっくうだ。で、彼らはマンガ化された「バトル・ロワイアル」にとびついた。だから「バトル・ロワイアル」のコミックスが売れているのだそうだ。  
 この話を友人にすると、「バトル・ロワイアル」の小説を読み、映画も鑑賞し、マンガも目をとおしている高校生になる娘の3つの作品に対する印象を教えてくれた。なんでもマンガの描写が一番残虐度が高いらしい。  
 となると、せっかくR-15に指定して中学生以下には見せないようにした処置はなんだったのだろうと思う。映画「バトル・ロワイアル」を教育上好ましくないと声高に糾弾する側にとって小説やマンガの存在は許せるのだろうか。  

 小説「バトル・ロワイアル」は某ホラー大賞の最終選考まで残ったものの内容がきわめて反社会的と審査員の反感を買い落選した経緯がある。  
 この小説が映画化されると某映画BBSで話題になりだした時は、007シリーズが今なぜ?くらいの認識しかなかった(あちらはカジノロワイアルか)。書籍の情報にはわりと敏感のつもりでいた僕としては小説の存在を全く知らなかったのは恥ずかしい限りだが、深作欣二監督によって映画化されると知り、まずは映画化作品に内容に触れよう、本を読むのはとりあえず後回しにした。  
 そうこうするうちにあの騒ぎである。映画がどんなにひどい内容であっても権力で上映中止にするような真似はよくないと思っている(それは小説でもマンガでも同じこと)。だからあの騒動が何だったのか。映画を純粋に観て自分なりの判断を下したいという思いが強くなった。が、いざ、ふたを開けたら大ヒット。そうするとイマイチ劇場に足を運ぶ気持ちがにぶった。そのうちにと思っていたらロードショーが終了。で、特別篇こそ真っ先に観ようと思いつつ、またズルズルとのびてしまい(人殺しがメインの映画って敬遠しがちなのだ)、会社帰りに寄れる丸の内東映での公開は終わり、新宿まで行かなければならなくなった。
 考えてみれば、この映画は銀座より新宿の場末の映画館で観たほうが似合っている。     

 国会議員が大騒ぎするほど殺人ゲームにインパクトはない。  
 テーマは中年男と少女の心の交流と断絶をまぶした逆説的友情論である。  
 近未来、多発する少年犯罪に業を煮やした政府は〈バトル・ロワイアル法〉通称〈BR法〉を制定した。全国の中学校の中から選別されたクラスの生徒たちを一定期間ある地区に閉じ込め、サバイバルゲーム(殺し合い)をさせ、最後に生き残った一人だけが脱出できるというもので、体のいい少年減らしの法律である。世の大人たちは傍若無人と化した少年少女は生きる資格なしと判断したのだ。  

 深作監督の演出は軽快だ。映画世界の状況を簡潔に説明した後、たたきこむように一気にサバイバルゲームに突入していく。さまざまシチュエーションでの殺し合いの描写。ある者は問答無用に相手に牙をむく、ある者は共存の道を模索する、ある者(カップル)はあっさり死を選ぶ。デフォルメはされているものの、行為自体は学校内(あるいは会社)における人間関係を象徴しているように思えた。  
 仲良く灯台に立てこもる女子生徒たちのところへ負傷した主役の男子生徒(藤原竜也)がかつぎこまれ、彼に殺意を抱く一人の女生徒の行為に起因してあっというまに仲たがいが始まりやがて銃の乱射で全員が死亡してしまうエピソードが特に印象深い。  
 女子生徒といえば、登場する女生徒たちの制服が理解できなかた。スカートからはみ出したスリップ(?)が目障りだし、たまにスカートがめくれて見え隠れするパンツなんて中世のそれ。別にそんなところを期待したわけではないが、思うにこの映画はわざと性(セックス)の問題を切り離しているのですな。  
 自分の生命が風前の灯火となった状況なら、なおかつクラスに意中の人がいるのなら(カップルだったらなおのこと)、「死ぬ前に一度やりたい!」と思わないか。あっけなく心中してしまうカップルを見ながら(男子生徒は金八先生の息子・幸作くんでした)おいおい、お前らホントにそれでいいのか!とつっこみたくなった。大きな声で言えないけれど、どうせ死ぬのならと女生徒を襲う奴等も出てくるだろう。  
 もちろん中盤にクラスで一番大人びた女生徒(柴咲コウ)がその問題を請け負うわけだが、あくまであっさりに、だ。  
 そういう意味で映画の殺人ゲームはゲームでしかない。リアリティなんてないわけだから騒ぐことなんてないのである。  
 先生(ビートたけし)の不気味な存在感がいい。役を自分に近づけるたけしらしい相変わらずの演技が他を圧する。一言も台詞を発せず、ひたすら殺人鬼に徹する安藤政信も魅力。もう一人の転校生・山本太郎ともどもいくら留年しているといっても中学生に見えないが。  

 少々クサいところもあるがそれなりに人物に感情移入し、ゲームのエンディングに仕組まれた罠にはまり、逃亡した彼らはどうなるのかとスクリーンにくぎ付けになった。が、大きくスクリーンに映し出された「走れ」の字幕でずっこけた。一気に脱力。おいおいこれは長渕剛の「ウォータームーン」か?  
 その後に続く先生とヒロイン(前田亜季)のラスト、その際たけしがつぶやく台詞がなかったら怒り心頭だったろう。

 追記  
 回想シーンで描かれたバスケットのシーソーゲームに胸熱くした。クラスメートが一致団結して応援するところは僕自身中学3年時に全く同じ経験をしていることから、あの時の感動が蘇った。

     ◇ 

2001/05/06

 「ダブルス」(テアトル新宿)

 「JOKER 厄病神」以来3年ぶりのショーケン主演の映画。
 一昨年の大河ドラマ「元禄繚乱」の綱吉役はショーケンらしさを発揮した久々の快演で、長年のファンとして溜飲を下げる思いだった。  
 90年代のショーケンは髪を短くして日曜劇場「課長さんの厄年」「冠婚葬祭部長」等のホームドラマで新たな魅力を発揮したが、以後ほとんど同じヘアスタイル。それがテンプターズ以来のショーケンファンである僕には不満だった。出演するドラマも「どうしてショーケンが?」と思ってしまうものも少なくなかった。

 70年代「約束」「太陽にほえろ」から始まったショーケンの役者人生は、そのまま髪の長さの変遷ともいえる。
 「太陽にほえろ」の頃肩まであった長髪は次の「傷だらけの天使」では少しすっきりとなり、BIGIのファッションとともに当時の若者の人気を決定的にした。僕も夢中になった一人である。
 「前略おふくろ様」ではあっと驚くスポーツ刈りを披露した。
 「前略おふくろ様」の収録が終わって髪を伸ばしはじめ、ごく自然に耳が隠れる程度になって「祭ばやしが聞こえる」に主演する。実をいうとこの時のショーケンが一番好きなのだ。
 「傷だらけの天使」のファッションには憧れるだけで手はでなかったが、「祭ばやしが聞こえる」で見せた普通の青年(競輪選手)役は高校生だった僕にはとても身近に思えた。劇中で無造作に着ていたトレーナーが気になってデパート巡りしたのが思い出される。
 その後ちょんまげ結ったりアフロになったり髭を伸ばしたりと自由自在。そんな中にあって85年のライブビデオ「アンドレ・マルロー・ライブ」のショーケンも長くもなく短くもなくという感じで僕の中でベストスリーに入る。

 「JOKER 厄病神」では往年のショーケンらしさを見せつけてくれたが、映画自体は共演の渡辺篤郎をフィーチャーしたストーリーだった。
 「ダブルス」も若手の人気俳優(鈴木一真)との共演だが、スチールのショーケンに目を見張った。ちょっと長めの髪のオールバック。まるで「傷だらけの天使」の小暮修が中年になったような容貌でとにかくかっこいい!(そういえば傑作「居酒屋ゆうれい」のショーケンは「前略おふくろ様」のさぶちゃんのその後の姿だった)

 eメールで知り合ったコンピュータおたくの青年と元鍵師の中年男がある会社の金庫から大金を盗み出し、何とか成功したもののエレベーターに閉じ込められてしまう。ふたりは一度も会ったことがなく、お互いの素性も知らない。はじめは反発しあうふたりだが語り合ううちにある種の連帯感を深めていく……。

 エレベーター内における密室劇、二転三転するストーリー展開。邦画では珍しい意欲作(脚本・米村正二、我妻正義 監督・井坂聡)でショーケン主演という以外にもかなりの期待があったが、まあまあの出来。エレベーター内の男たちドラマと同時に深夜バーで男を待つふたりの女性が描かれるが容易に結びつきが想像できるし、結果何のひねりもなくまったくそのとおりの展開だった。
 とはいうもののこの映画の面白さはショーケンと鈴木一真のぶつかりあいだ。ラストにみせるショーケンの笑顔を見るだけでもファンとしては劇場に足を運んだ甲斐があった。

 川原亜矢子には何も感じなかったが、平愛梨の愛くるしさに輝いていた頃の宮沢りえを見た。けっこう胸キュン。オレもついにロリコンになったか。

     ◇ 

2001/05/19

 「トラフィック」(丸の内ピカデリー1)  

 本年度のアカデミー賞4部門(監督、脚色、助演男優、編集)受賞作品。  
 アカデミー賞云々に関係なく予告編を観るたびに興味をそそられる映画だった。
 週刊文春の映画評では評者全員が3つ星を進呈していた。こんなことはほとんどない。映画への期待は高まるばかりだったが、内容に関して大きな勘違いをしていたみたい。麻薬流通組織と取り締まる政府組織がラストでアクションが炸裂するハリウッドお得意のストーリーだと思っていたのだのだ。
 だってさあ、予告編はそういう作りになっていたし、チラシのコピーは〈闘わなければ、呑み込まれる〉なんだもの。

 映画は3つの麻薬に関するドラマが同時進行する。
 メキシコ警察の刑事(ベネチオ・デル・トロ)が仲間とともにアメリカとメキシコを結ぶ麻薬コネクションを摘発しようとして逆に利用される様。
 麻薬撲滅作戦を開始した麻薬対策本部長(マイケル・ダグラス)が一人娘の麻薬汚染に右往左往する様。
 麻薬捜査官(ドン・チードル)に亭主(デニス・クエイド)を逮捕され、初めて彼が麻薬王であることを知った妻(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は動揺するものの、家族を守るため亭主を救うべく、捜査官たちが逮捕し公判の証言者となる麻薬の売人を抹殺しようと動き回る様。
 監督のスティーブン・ソダーバーグはこの3つのドラマをまったくタッチを代えて描いた。赤く荒涼として乾いた映像でベネチオ・デル・トロのやるせない表情を追い、青く冷たい手持ちカメラのブレた映像では父娘の断絶と再生を記録、そして麻薬捜査官と組織の追いかけっこ、その過程はアメリカ映画の王道を行く見慣れた映像で構築する。
 この3つのエピソードがラストになって微妙に重なり合うところが巧い。

 5月に入って一気に仕事が忙しくなり、この映画も前売券を買ったもののなかなか観に行く機会がなく、このままでは券を無駄にしてしまうとばかり仕事帰りに疲れた身体で観たものだから前半は何度も意識が途切れてしまう始末。だから巨大麻薬コネクションの流通機構が今いち理解できなかった。
 理解できたとしても観終わって全米の興奮を肌で感じることはできなかったと思う。

 自分の理解力を棚に上げて書くのも気が引けるが、麻薬と宗教(キリスト教)の問題に踏み込んだ映画って日本人には理解できないのではないか。
 中学3年の時「エクソシスト」を観てそれほどの怖さを感じなかった。ある評論を読んだら、真のキリスト教徒でないと映画で描かれた恐怖は実感できないとあった。それは「スリーパーズ」を観た時にも感じた。
 同じように日本では麻薬が一部浸透しているものの、一般社会を混乱させるほどのものではない。だから各エピソードで描かれた内容が、家族(夫婦、父娘)、友情といった普遍的な問題として捉えることはできるものの、それ以上にこちらに迫ってはこなかった。
 とはいうものの、ラスト、組織の汚職を暴く条件に要求した照明設備が整ったグラウンドが完成し、少年たちが嬉々として野球する姿を観客席で眺めるベニチオ・デル・トロの表情は一見の価値はある。




 23日(土)は地元シネコンで「エイリアン:コヴェナント」を観た。

 実は「新感染 ファイナル・エクスプレス」鑑賞後、10分後に「エイリアン:コヴェナント」が始まるスケジュールだったので、続けて観ようと思っていた。毎月20日はMOVIX独自のサービスデーで1,100円だから、クーポン(1,800円→1,300円)を使用するよりお得だし。
 しかし、予想以上に「新感染 ファイナル・エクスプレス」の出来が良く、しばらくは充実感に浸っていたかった。
 以前にも書いたことだが、続けて映画を観るのは疲れるし、何より感動や感銘といった想いが分散してしまうのが惜しいのだ。その日しか観られないというのなら無理もするが、余裕があるなら、1日1本にしたいというのが本音。

 昔、中学、高校時代は、3本立てが当たり前で、別に苦でもなんでもなかった。それも3本休憩なしで上映したのだ。今は2本立てに耐えられるか自信がない。年齢には勝てない。感受性の磨耗もはなはだしい。

 そんなわけで、日を改めてレイトショーでの鑑賞にしたわけだが、本当のところ、今はレイトショーもつらいのだ。
 いや、レイトショー自体には何の問題もない。
 こういうことだ。
 レイトショーは21時前後に始まる。終了は23時過ぎで帰宅すると深夜0時をまわっている。なんだかんだで寝るのが1時ごろ。目覚ましは3時半にセットしているから睡眠時間は3時間ない。起きるときのつらさといったら……。
 サラリーマン時代、レイトショーはありがたかったのに。

 さて、映画「エイリアン:コヴェナント」。
 前作「プロメテウス」はある意味噴飯ものだったから、続編「エイリアン:コヴェナント」はまっとうな内容になっていて面白く観られた。全体の構成は第1作「エイリアン」を踏襲、最初のクライマックスは「エイリアン2」のリプリーvsクィーンエイリアンを最新のVFXで表現するとこうなるというヴィジュアルだった。興奮できるかどうかは別だが。

 エイリアン・シリーズにおいて、アンドロイドは重要な立場で登場する。とはいえ、これまではあくまでも脇役だった。それが今回は主役に躍り出る。それも二人いることで、その存在がクローズアップされるのだ。
 そして予想外の驚愕な展開。このエイリアンの前日譚シリーズはいったいどこに着地するのか?

 何より特筆すべきはアンドロイド・デイヴィッドのキャラクターだ。
 クラシック音楽や美術に精通し、優しさと残虐性を兼ね備えた人物。これはまさしくレクター博士ではないか!
 かつて、「ハンニバル」(トマス・ハリス/高見浩 訳/新潮文庫)の読書レビューでレクター博士についてこう書いた。
     ▽
 ヨーロッパ的な優雅さと得体のしれない残虐さを併せ持つ斬新なキャラクター。
     △
 「ハンニバル」は「羊たちの沈黙」同様、ジョナサン・デミ監督で映画化される予定だった。が、主演のジョディ・フォスターがオファーを断ったことにより、降板(だと思う)して、リドリー・スコット監督が後を引き継いだ。
 リドリー・スコット監督がアンドロイドのデイヴィッドを創造したことにはかなり「ハンニバル」の影響があるのではないか?
 ある意味、レクター博士以上に残忍なキャラクターである。レクター博士はクラリスに対してあんなことはしないだろう。

 ヒロイン(キャサリン・ウォーターストン)を見ながら思っていた。
 ハリウッドで「コメットさん」が映画化されるなら、主役やればいいな。
 

  

 今秋は観たい映画が目白押し。ところが休みになると具合が悪くなるという悪循環で、全然消化できない。
 「関ヶ原」「ダンケルク」のあと、20日(水)に地元シネコンで「新感染 ファイナル・エクスプレス」を観た。

 走る列車にゾンビたちを閉じ込め、彼らの攻撃をかわしながら主人公を含むわずかな生存者たちが別の生存者がいる車両へ移動するアイディアがいい。

 冒頭から中盤までの展開はそれこそゾンビものの定石なのだが、後半から意外な方向に進んでいく。
 人間同士の敵対する様は「ミスト」を思い出した。あれとは少し様子は違うが。
 この映画、最初に次々と何人もゾンビに殺されていき、残った人たちがなんとか逃げ延びるのかと思っていた。
 「ジュラシック・パークⅢ」は主要人物は恐竜に襲われながらも最後まで生き延びた。この映画も同様だと思って、ハラハラしながらも安心して観ていたところがある。そうではなかった。
 夫婦愛に胸熱くされ、父娘の絆を描くくだりは、もう涙、なみだ……。
 伏線をうまく回収したラストに拍手喝采。

 ハリウッドでリメイクされるのではないか?

 どうでもいいこと。
 主人公の父親(コン・ユ)は韓国の大沢たかおと呼ばれているとか、いないとか。
 印象深い、あの夫婦の旦那(マ・ドンソク)は、角田信朗にロバートの秋山を足して2で割った容貌、体格。
 大沢たかおの娘(キム・スアン)は「ウルトラQ/悪魔ッ子」の少女に似ている。ということは、オードリーの若林さんか。

 


 
2000/02/07

 「溺れる魚」(丸の内東映)  

 映画サービスデー。
 「バトルロワイアル」にするか、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」にするか、迷った末、堤幸彦監督の新作「溺れる魚」にした。
 何やら意味深な、でも何のことやらわからないタイトルがいい。原作は戸塚圭太とあるが、まったく知らない作家だ。
 新スタイルのミステリ映画の誕生と大いに期待した「ケイゾク/映画」には裏切られたが、「溺れる魚」はポスターから妖しい雰囲気が感じられ、けっこうイケるんじゃないかと思えた。

 快作だった。
 タイトルの由来となるオープニングの不気味シーンから、映画とTVを混在させたような感覚の映像で最後まで飛ばしまくる。笑いの連続。同じく大笑いだったにもかかわらずクライマックスで引いてしまった「スペーストラベラーズ」に比べ、本作のそれは絶体絶命の緊張感の中、ここぞの台詞にぐっときて、けれどもユーモアは忘れない。
 脚本(横谷昌宏)がしっかりしている。

 主人公の問題刑事二人、〈エースのジョー〉フリークの椎名桔平と女装マニアの男ねえちゃん(スペシャルドラマ「少年H」で印象的なおかまを演じ、以後我が家では彼をそのときの役名でこう呼んでいる。窪塚洋介というんですね)の紹介のあと、何の脈絡もなく舞台は銀座の歩行者天国に飛ぶ。
 雑踏の銀座4丁目交差点付近で何やらあやしい男たちが「やれ」「やらない」の問答をしている。と、中の一人(河原サブ)が意を決してコートをとる。何と下半身裸、男は大声で叫びながら銀座通りを駆け抜ける。その模様をデジタルカメラに収録する謎の男(IZAM)。
 椎名は捜査で踏み込んだ現場の金を横領した件で、窪塚は署内の制服(婦人警官)を盗んだ件でそれぞれ査問委員会にかけられ、警察庁特別監察官(仲間由起恵)からある秘密捜査を担当するならば罪を不問にすると言われ、しぶしぶ了承する。
 それが某フィルムメーカー脅迫事件で、銀座通りの一件は犯人から指示された脅迫に対する会社側の応対だった。あやしい男たちはフィルムメーカーの部長たちなのだ。その中に穂積ぺぺがいてうれしくなってしまう。
 IZAMは幼少時に家族を惨殺された過去を持ち、それがトラウマとなっている新進芸術家で夜は奇抜なファッションで身をつつんだ若者たちが集うクラブを経営している。
 椎名と窪塚が担当させられた捜査とはそのクラブに潜入し、脅迫事件の犯人がIZAMであることをつきとめることだったのだ。
 先にメーカーからの依頼で潜入している悪徳刑事(伊武雅刀)と主人公、警察、やくざがからんで展開するドタパタはかなり練れていて退屈しない。唯一まともに見えた紅一点仲間由起恵もファミレスの大食い以降はそれこそ他のキャラクターのお仲間になるわけ。
 〈エースのジョー〉フリークの椎名がたまらなくおかしい。このキャラクターは「大統領の晩餐」(小林信彦)に登場する旦那刑事に通じるものがある、というかそのまんんまか。最初の見せ場である西新宿の銃撃戦会場にホンモノの宍戸錠がタレントとして出てくるだけで次の展開が予想できて大笑いだ。
 思うに椎名桔平はあたりまえの二枚目よりこういうぶっとんだ役の方が数倍いい。女装の窪塚洋介も負けずおとらず魅力を発揮。最後まで女らしさを忘れない。
 おふざけで展開しているようで真犯人解明ではちゃんとハードヴォイルドの定石を踏まえているところがなかなか。ラストまでほとんど顔を見せない特別監察室室長の渡辺謙の設定が生きてくる。

 内容は「傷だらけの天使」「探偵物語、映像は「遊戯」シリーズの平成版といった感じか。ただ「傷だらけの天使」や「遊戯」シリーズが映画人の作品としたら、「溺れる魚」は映画を意識しないビデオ世代のそれだろう。
 映画はエンディングロールが終わっても楽屋落ちが続く(堤監督の趣味か?)。スクリーンが真っ暗になっても席を立たないように。最後の最後まで笑えること間違いなし。
 問題刑事に特別監察官を加えた男2人+女トリオでシリーズができるのではないだろうか。

【註】
 笑えたと書いたけれど、映画館では笑う人とまったく笑わない人とはっきり分かれていた。万人向けの爆笑映画ではないことは確か。



2001/03/30

 「ミート・ザ・ペアレンツ」(東商ホール 試写会)  

 予告編やTVCFを見て興味がわき、監督が「オースティン・パワーズ」のジェイ・ローチということもあってかなり注目していた映画だったが、今週の週刊文春の映画評では各人ともいい評価をしていない(中でも信頼している品田雄吉は相変わらず星2つだけど短評がきびしい)。ビデオになってからでいいかと思っていたところ、昨日友人から試写会招待状がまわってきた。ラッキーだし、こうゆうのってとてもうれしい。
 
 主演のベン・スティラーが何やってもダメな男として日本でも「メリーに首ったけ」以降人気急上昇らしい。  
 看護士のベンが同棲している恋人との結婚の承諾をもらうため彼女の両親に会いに行くのだが、父親は娘を溺愛する堅物の元CIAの調査官(ロバート・デ・ニーロ)。ベンは何とか父親に気に入ってもらおうとするのだが、やることなすこと裏目に出てドジッてばかり。一発逆転を狙って行方不明になった愛猫を探すが、なかなか見つからない。そこである工夫(ズル)をして見事探し出したことにして、やっと一家の一員に認められたかと思ったらこれが元で大騒動を巻き起こし、哀れ恋人と別れなければならないことに……というストーリー。もちろんコメディーだから最後は大団円をむかえるのだけれど。
 
 最初に父親の運転でドラッグストアへ買い物に行く際、ラジオからPPMの「レモンツリー」と並ぶ名曲「パフ」が流れてきて二人が歌詞の内容で議論するシーンにニヤリ。煙草、麻薬を嫌悪する父が「パフ」がいい曲だというと、すかさずベンがコレ暗喩で麻薬の歌なんだと説明する。父は父で「何言っている、あれは魔法使いのドラゴンの話じゃないか」と。このやりとり、昨年「放送禁止歌」(森達也/解放出版社)の著者と対談しているデーブ・スペクターのアメリカにおける禁止歌についての解説を読んでいなければまったくチンプンカンプンだったろう。僕なんて長い間「パフ」って語感からマシュマロのイメージを持っていたのだから。  
 ほかに笑えたのは主人公の本名を知って両親が驚きの声をあげるシーン。  
 日本でいえば近藤さんと結婚したムツミさんの行末とか××樹里ってアイドルは千昌夫と結婚できないねという類いの話。  
 全編にわたってつまらないというわけではないけれどば笑いがはじけるってことがなかった。  

 関係ないけど主人公が夢中になっている恋人(テリー・ポロ)より母親(ブライス・ダナー)の方がよっぽど魅力的だった。

     ◇

2001/04/04

 「ハード・デイズ・ナイト」(川崎チネチッタ)  

 高校時代にビートルズにはまった。当然ビートルズ映画も地元の映画館にリバイバル3本立て(「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」「HELP! 四人はアイドル」「レット・イット・ビー」が来た時は真っ先に観に行ったものだ。  
 当時はビートルズの生の姿が見られるということでドキュメンタリー「レット・イット・ビー」を一番評価していた。
 映画デビューの「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」はまあまあ、最高傑作とされる「HELP! 四人はアイドル」はちっとも面白くなかった。  
 アイドル時代のビートルズのメンバーにも楽曲にもそれほど関心がわかなかったこともあるが、映画の作りがもろTV映画「モンキーズ」と同じというところが要因だったのかもしれない。そう、バンドのメンバーが歌と寸劇を繰り広げるドラマの原点は僕にとっては「モンキーズ」であって「ビートルズがやってきた…」は亜流でしかなかったのだ(本当はモンキーズがビートルズを真似ていて、この時だって当然そんなことは知っているんですけどね。小さい時の刷り込みって影響大なのよ)。    

 その「ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!」が装いを新たにデジタル・リマスターバージョンの「ハード・デイズ・ナイト」という原題のまま公開された。  

 もし映画や音楽、特に洋楽にまったく疎い若者に「この映画は60年代のイギリスを舞台に当時世界のトップアイドルだったビートルズというバンドの人気ぶりをメンバーのそっくりさんを起用して描いた昨年制作されたイギリス映画で、当時の雰囲気を再現するためにわざとモノクロで撮影されているんだ」なんて説明したらきっと信用してしまうのではないか?それくらい映像が鮮明で、ファッションも現代にそのままフィットしそうな感覚。登場する女の子たちのメイクもまさしく〈今〉のものだ。これには驚いた。個人的には70年代に思い入れがあるが、ことファッションに限定すれば60年代はまさしく黄金時代だ。
 
 リチャード・レスター監督の才気が最初から最後までほとばしっている映画でもあった。ファンに追いかけられ逃げまくるオープニングから列車内で、あるいはTVスタジオ、ステージでの演奏シーン等、今流行のプロモーションビデオの先駆となる映像がまったく古臭さを感じさせない出来なのだ。  
 ビートルズの面々が広大な敷地に飛び出てふざけまくる模様を空撮したシーンなど席を立って思わずスキップしたくなるような爽快な気分に包まれた。  
 またいたるところにギャグが挿入されていて映画自体が音楽を介在させたギャグアンソロジーという趣きもある。リチャード・レスター監督がビートルズのメンバーを素材に楽しんで演出しているのが目に見えるようだ(脚本はアラン・オーエン)。  

 唸ったのはエンディングタイトル。当時映画のエンディングは物語の後「THE END」「FIN」「FINE」「終」「完」の文字がでて終了が当たり前だった。ところがこの映画はエンディングに主題歌「A Hard Day's Night」が流れる中スタッフタイトルが続くのである。こういう処理も今風に感じた。  

 これも一種のミュージカルだろう。ふと「小さな恋のメロディ」の原点はこの映画ではないかと思えた。

     ◇

2001/04/10

 「天使がくれた時間」(九段会館ホール 試写会)  

 ずいぶん前から京浜東北線の駅ホームに貼り出されている大型ポスターでこの映画を知っていた。最初は内容も知らずそのタイトルから大甘なラブロマンスの類だろうくらいしか認識していなかったのだが、ストーリー(プロット)を知って俄然興味がわいた。  
 主人公の中年男性がかつて別れてしまった女性と結婚していたら人生はどうなっていたかを描く内容で、ああ、また藤子・F・不二雄の異色短編の世界だなと。  

 藤子の短編もやはり中年の男性が主人公だ。主人公は今の妻(仮にA子)と間には子ども生まれ、ごく平凡な生活をおくっているのだが、何かと口うるさい彼女のやることななすことに辟易していた。かつて別れた女性(B子)と結婚していたらどんなに素晴らしかったか、と思いめぐらす毎日なのだ。と、その思いが通じたのか、ある日、何かに導かれるように白い靄のなかを通り抜けると、そこはB子と結婚した主人公が毎日をおくるパラレルワールドだった。主人公にはA子との生活していた記憶もなくなる。念願かなった主人公だったが、しばらくするともしA子と結婚したらどんなに素晴らしかったかと思い巡らすようになる……隣の芝生は何とやらの話である。  

 「天使がくれた時間」も同様なストーリーだろうと思ったら、ずいぶん違った。  
 主人公(ニコラス・ケイジ)は若かりし頃、研修のためイギリスに旅立つ際に弁護士志望の恋人(ティア・レオーニ)から、今離れたら二度と会えない気がする、イギリスに行かないでと懇願されたにもかかわらず、「イエス」と言えなくて、結局別々の道を歩むことになり、独身のまま今は金融会社の社長。ビジネス以外関心のない超リッチマンだ。ふとしたきっかけで知り合った黒人のチンピラに今の生活に満足しているのかと訊かれ、「満ち足りている」と答えると、翌朝目覚めると不思議な世界の住人となっていた。何と彼はかつて別れた恋人と結婚し、二人の子を持つタイヤ販売を生業とするごくごく平凡な父親なのだ。最初はそんな生活にとまどい元の生活にもどりたくてしょうのない主人公がやがて家族の愛にめざめてしまうという物語。  

 仕事をとるか、家族をとるかの究極の選択というわけなのだろう。しかしこれ、はじめから答えは決まっている。しがない生活といえ、美人の妻(もともと結婚したかった相手)とふたりの愛児にかこまれ、郊外に一戸建てのマイホーム、社長時代のフェラーリとは比べられないけれどちゃんとマイカーだってある。
 この生活のどこが不満なのだ? と子ども部屋も与えられない狭いマンション生活、たぶん今後もマイカーなんて持つこともない生活をおくる僕はつっこみたくなる。  
 子どもが寝たからとちょっと淫乱気味に主人公にセックスを迫る妻がとてもキュート。しかしこれも子供部屋と寝室が別になっている家ではさほど問題ではないだろう。親子3人川の字で寝ている我が家では切実な問題だが。  
 まあ、アメリカの寓話と思えば腹も立たない。  

 原題は「The Family Man」、原題をそのままタイトルにしてしまう風潮の中、これでは客は呼べないから邦題は正解だ。




 またネガティブな意見になってしまうかもしれませんが、今日はソニーのプレステ2の宣伝のうまさについてお話しします。

 この夏公開されている映画「ジュブナイル」は、4人の少年少女たちが、未来からやってきた小型ロボットと、地球を狙う宇宙人をやっつける物語なんですが、劇中の小道具としてプレステ2が出てきます。

 小型ロボットの知識を広めるためにインターネットを利用したい。しかし少年たちはパソコンを持っていない。プレステ2だったらインターネットに接続できると、TVゲーム好きの主役の男の子が、接続するにはどうしたらいいのか、ソニーに電話するんです。
 特別のアダプターがなければ接続できないと教えられ、結局あきらめてしまうわけですが(そうしないと次のお話に展開しないのです)、この映画を観た子どもたちはプレステでもインターネットができるんだとわかるわけです。
 この後も、小型ロボットが宇宙人と戦う人が操縦する大型ロボットを作成して、それに男の子が乗ってクライマックスの対決シーンになります。ここでもロボットの操縦はプレステ2のコントローラーなんですね。

 ソニーがどの段階でこの映画にからんだのかわかりません。すでにシナリオに書き込まれてあって、ソニーに話を持っていって資金を提供したのでしょうか? 
 それとも、最初から資金提供が決まっていたからそれらしいシナリオを書いたのでしょうか?

 昨年公開された「ガメラ3 邪神覚醒」にはドリームキャスト(DC)が出てきます。宣伝協力にセガがクレジットされていました。
 しかし、登場するDCは単にソフトを起動させるハードでしかなかったんです。別にDCである必要はありません。
 あのとき、DCの、ネットワークに簡単に接続できる機能を映画の中でうまく使っていれば宣伝としても利用できたのに、と今更ながら思います。

 まあ、唯一の救いは「ジュブナイル」がポケモン映画に押されてあまりヒットしていないということでしょうか。




 一昨日の午後、丸の内ピカデリーで「ダンケルク」を観る。
 この秋一番の期待作。けっこう長い間、劇場で予告編を見せられたような気がする。
 クリストファー・ノーラン監督版「プライベート・ライアン」だと勝手に思っていたのだが、まったく違った。
 前作「インターステラー」がわかりやすい「2001年宇宙の旅」だとすると、本作は戦場版「2001年宇宙の旅」だ。体感する映画ということ。詳細は「関ヶ原」同様項をあらためる。
 「シン・ゴジラ」にはドラマがない、と書いた人たちは、この映画についてどう思うのだろうか?

 夜は下高井戸シネマで「美しい星」を再見する。ちょうど小説を読んでいるところなので、この機会にと高井戸まで足をのばしたわけ。

          * * *

2001/01/16

 「クリムゾン・リバー」(銀座ガスホール 試写会)

 最近はハリウッドでも活躍が著しいジャン・レノと「ドーベルマン」公開時に〈フランスの松田優作〉なんて呼ばれたヴァンサン・カッセル共演のサイコミステリー&アクション。

 アルプス山脈の麓にある森林で全裸の男の死体が発見された。生きながら身体中を傷つけられ徐々に命を奪われる残忍な殺人方法で奇妙なのは身体が胎児のような格好に折り曲げられていたこと。捜査支援のためパリからやってきた刑事(ジャン・レノ)は同じ手口の第2の殺人に遭遇する。
 かたや勤務中にマリファナを吸うトッぽい若手刑事(ヴァンサン・カッセル)は交通事故死した少女の墓荒らしを追っている。
 全く別の場所の何の関連性もない2つの事件がやがて交わり、二人の刑事は協力しあいながら事件の真相を調べるうちに閉鎖的な片田舎の大学町で行われている驚愕な事実をつきとめる。果たして殺人事件の犯人は…… 。

 タイトルバックは変死体を嘗めまわすように撮ったショットの数々。やがて山道を走る一台の車を空撮で狙う。まるで「シャイニング」のようだ。内容はもちろん映画のスタイルもハリウッド映画みたいだが、台詞がでてくるとやはりフランス映画だ。
 劇場でフランス映画を観るのは久しぶりのことだ。例の核実験以来、我が家ではフランス商品を一切ボイコットしていたわけだが(だからと言ってフランス映画を観なかったわけではない。単に興味をひく作品がなかっただけ)、やはりフランス語の響きはいい。

 ジャン・レノは少し髪が伸びいつもとイメージが違う。短髪の方が似合うと僕は思うが。ジャン・レノの胸を借りるヴァンサン・カッセルは「ドーベルマン」を未見の僕にはお初の俳優なのにいつもお目にかかってる感じがしてならなかった(CFに出演していることが後でわかった)。

 物語の構成、クライマックス等々、全編にわたってアメリカン(というかハリウッド)テイストというのはどうかなと思う。この映画、日本語吹替えしたら誰もフランス映画だなんて思わないだろう。

 まあ、こちらの体調のせいもあって、前半は睡魔に襲われて僕の頭には別のストーリーが浮かんでしまうことがたびたびあった。映画がいつのまにかコメディになってしまうのだから弱った。
 が、二人の刑事が敵に命を狙われるあたりから目も覚めた。だからだろうか、犯人に殺人をさせる動機づけとなった陰謀の仕組みが今いちわからなかった。もうすぐ原作本が発売されるというからそこら辺のことは小説で確認しよう。

 アルプスで殺人犯が登場するカットはその処理の仕方が斬新で初めて経験するサスペンスだった

     ◇

2000/01/20

 「愛のコリーダ 2000」(シネアミューズイースト&ウェスト)

 大島渚監督のフランス製ハードコアポルノ「愛のコリーダ」が公開されたのは1976年。僕が高校2年のときだ。
 当時なぜ観なかったのだろうとふと考え、笑ってしまった。18歳未満お断りなのだから観られないのは当たり前ではないか。
 嘘である。高校生になってからは独立系のピンク映画を皮ぎりに日活ロマンポルノをかなり観に行っていた。中間や期末試験が終わるとそのまま映画館に直行し、3本立てのプログラムに興奮していたわけだ。だいたい期待外れだったけれど。と書いていて、いくらなんでも制服姿で映画館に入れるわけがないと気づいた。記憶なんていい加減なもんだ。

 そんな中であの大島渚がポルノ映画を撮ったと。題材は阿部定事件、主演は阿部定に新人の松田英子、愛人の定に男性自身を切り取られる男・吉蔵に藤竜也。何より話題になったのは二人の本番プレイだった。
 高校時代は「キネマ旬報」を毎号買っていたから、「愛のコリーダ」の製作発表から日本公開までのメディアの騒動はよく憶えている。
 〈芸術か猥褻か〉論争が起こったとき、大島監督の「猥褻のどこが悪い!」という開き直った反論は印象的だった。監督の妻でもある女優の小山明子はインタビューの中で「今に女優はヘアの形にも神経つかわなくちゃならないときがくる」というようなことを発言していて、大胆なことを言うなあ、と瞠目するとともに、でもそういうあなたは人前でヌードなんかにならないでしょう、と揶揄したい気持ちもあった。しかし樋口加南子のヘア出しヌード写真集が大ヒットして以来、ヌードにヘアはつきものになってしまった。ヘアヌードを見るたびに僕は小山発言を思い出す。

 芸術か猥褻か、という問題について、大島監督の反論に大いに納得できる。
 「エマニエル夫人」が大ヒットしたとき、「なぜ観に行くのか」という問いに女性たちは映像の美しさを強調した。僕はあれはアジア蔑視の映画じゃないかとはなから観る気もしなかったから映画についてどうのこうの言える立場にない。が、女性たちがシルビア・クリスティルの奔放なセックス描写見たさに劇場に足を運んだことは容易に想像できるし、その恥ずかしさを〈映像の美しさ〉でごまかした、と思っている。
 大島監督が芸術に逃げずに「愛のコリーダ」を語る姿は頼もしかった。
 とはいうものの、結局僕は「愛のコリーダ」を観なかった。メディア側の騒ぎ方にうんざりしていたこと、本番、モロ出しといったって、日本公開版は大幅にボカシが入って何がなんだかわからないものになると思ったこと、そして何よりスチールで見る主演女優の松田英子に何の魅力も感じなかったことが原因だった。(次の「愛の亡霊」はちゃんと劇場で観ている。)

 そんな「愛のコリーダ」が完全版とはいかないものの新たな修正を加え、なるべくオリジナルに近くした「愛のコリーダ 2000」として公開された。

 冒頭、殿山泰司が定に言い寄る薄汚い浮浪者の役で登場し、堂々とふんどしの間からペニスをのぞかせる。これには驚いた。当たり前といえばそれまでだが、脇役にいたるまで裸、局部全開なのだ。老いも若きもの感。役者たちがよく納得したものだ。
 映画は最初から最後までセックス描写が続く。噂どおり〈やりまくり〉の映画だった。しかし、当然裏ビデオともアダルトビデオとも印象はまったく違う。もちろん〈OSHIMA〉ブランドの威力でこちらがそう構えていることも要因だろう。
 ただ描かれる内容は一部突飛ではあるけれど、男女関係においてはいくつかの恋愛、女性関係を経験、ましてや既婚の40歳過ぎの中年男には激しさの差はともかくよくある光景に思えた。すべてを見せることでドラマが作られているのだから逆にボカシがある方が不自然だし、別の意味でいやらしい。

 平々凡々とした容姿の定役・松田英子には最初やはり何も感じなかった。ところが物語が進行し、着物を脱ぎ、藤竜也相手に愛欲の世界に浸りだすにしたがってだんだんと魅力的になってくるから不思議。カットによっていくつもの顔を持っているのだ。何よりスタイルがバツグンにいい。それほど大きくはない乳房の形の良さは森下愛子のそれを思い出した。
 駆け落ちし、いっしょに暮らしていた吉蔵がいったん自宅にもどると、ひとりぼっちで帰りを待つ定が宿のふたりの全裸の幼子(男の子と女の子)と戯れながら、ふいに男の子のおちんちんにむさぼりついてしまうシーンには定の孤独、愚かしさとけなげさがあふれていた(演ずる男の子がトラウマになっていなければいいけれど)。

 吉蔵が町を歩いていて兵隊の集団とすれ違うシーン。
 徐々に軍国主義に覆われていく昭和初期の日本。一方は国のため命をすてようとする集団、片やひたすら自分の悦楽だけに生きている男。公と個のすれ違いの対比が胸にこたえる。

 僕には二人の関係が究極の愛かどうか断言できない。ただ二人の愛が永遠に続くものとも思えないのは確かである。
 観終わって深く感動するというのではないが、時間が経つうちにひしひしと〈何か〉が胸をつついてくる。

 しっとりと濡れたような、全体的に赤が染み出たような深みのある映像、そんな映像にマッチした三木稔の音楽も忘れがたい。

     ◇

2000/01/29

 「ビッグママスハウス」(九段会館 試写会)

 最近、友人から調達してもらう試写会の招待状、その作品にまったく知らないものが多い(映画雑誌を読まなくなったからなあ)。
 この映画もそうである。だいたい主演のマーティン・ローレンスを知らない。
 監督は「ホーム・アローン」のクリス・コロンバス監督の作品でコンビを組んだ名フィルムエディターで「ホーム・アローン3」で監督に進出したラジャ・コズネル。
 ということを会場で配布されたチラシで知った次第。
 昨年の夏、アメリカで大ヒットしたコメディで、マーティン・ローレンスは「バッドボーイズ」でウィル・スミスとともに人気スターの仲間入りした、とこれまたチラシに書かれているが、僕は「バッドボーイズ」を観ていないし、どんな内容かも知らない。恥ずかしい!

 映画の魅力とは何かを考えた場合、特撮・アクション・音楽・コメディだと思っている。
 小さいころから〈お笑い〉が大好きで、コントを考えたりして学校の演芸会などで舞台に立ったりしていたにもかかわらずコメディ映画を率先して観に行くことがない。特にこの10年くらいはコメディといわれる作品で大爆笑する映画に出会える機会がなかった。

 刑務所を逃亡した強盗犯をつかまえるため、立ち寄る可能性が高い彼の元恋人の祖母に家に張り込むFBI捜査官の一人で変装の名人(マーティン・ローレンス)が巨漢の祖母(女装したKONISHIKIだあ!!)に扮することから巻き起こるドタバタ劇である。

 本物の祖母と主人公がニアミスするバスルームでのうんこネタはあまりの下品さでちっとも笑えなかった。
 この映画の売りである主人公のメイクはもちろん素晴らしい出来なのだけれど、何年も会っていない孫娘(ニア・ロング)をだませたとしても、毎日顔を会わせる隣人たちが本人だと思うはずがないだろうに(そこが映画、コメディの真髄なのだけれど)。

 孫娘を演じるニア・ロングがキュートだ。それほど美人というわけではないが、プロポーションが抜群。思わず鼻の下が伸びちまいます。
 それにしても最近アメリカの映画、TVドラマに登場する黒人女性はきれいな人ばかりだ。男優にしてもけっして極悪人を演じることがない。主人公かNo2あたりのちょっといい役が指定席。ワルだとしても根っからの悪人というわけではない。たぶん、そういうきまりごとがあるのだろう。
 昔、手塚治虫がTVアニメ「ジャングル大帝」をアメリカのTV局に売り込みに行ったとき、登場する黒人は限りなく二枚目にかっこよく、白人はおもしろおかしくしてくれと要望されて困ってしまったというエピソードが自伝マンガ「ガチャボイ一代記」にでてきた。現在ユニオンか何かでそれが徹底されているのではないか。
 でもこれ、逆差別のようにも感じるんだよなぁ。

 黒人といったらやはりゴスペル&ダンスという印象が強い。
 この映画でも歌とダンスがミックスしたこちらも思わずリズムをとりたくなってしまうシーンもある。これがもっと迫力あるものになっていたら、星2つだったのに。




2000/06/26

 「失われた宇宙の旅2001」(アーサー・C・クラーク/伊藤典夫 訳/ハヤカワ文庫)

 来年が2001年だからその記念に上梓されたと思ったら、原書は1971年に出版されていて、日本では長い間未訳だった由。
 書店で本書を見つけたとき、解説に「クラークによるメイキング・オブ・2001年宇宙の旅」とあって、映画「2001年宇宙の旅」の原作になったクラークの短編「前哨」も収録されていたので、即買ってしばらくツン読状態だった。

 読んでみるともちろんメイキングもあるのだが、それ以上に、映画製作にあたってキューブリックとクラークが書き、実際には映画化されなかった当初のシノプシスが映画の進行どおりに並んでいる。
 これはもう一つの「2001年宇宙の旅」である。

 映画に登場したコンピュータHAL9000のHALはIBMのアルファベットをひとつずらした単語と噂されて久しいが、クラークは本書できっぱりと否定している(Heuristically purogrammed Algoristhmic computer 発見的プログラミングをされたアルゴリズム的コンピューターの略)。

 映画が公開された際、ラストの難解さが話題になった(あくまでも後年知ったことだが)。「あれは予算がなくなったせいだ」と推測する評論家がいたが、まったくそのとおりであることも述べられている。

 映画「2001年宇宙の旅」を劇場でちゃんと観たのは20代のころの何回めかのリバイバルロードショーだった。その前にもTVで何度か観ていて感じていたことだが、新宿プラザの70㎜スクリーンの迫力ある映像を目のあたりにして、これはストーリーがどうのというより、映像そのものを体験する映画なのだと確信した。
 〈人類の夜明け〉では精巧な類人猿のぬいぐるみ演技がみものだし、空に投げ上げた骨が宇宙船に変わってからは、未来の宇宙旅行の実際をつぶさに観察すればいい。あるいはディスカバリー号における突然のHALの反乱シーンの息づまるサスペンスにハラハラドキドキしたり。

 ストーリーに意味を求めたいなら、小説版「2001年宇宙の旅」を読めばいい。主人公・ボーマン船長がスターゲートを飛び越えるシーンを映画では光の洪水といった感じで描写し、かなりの迫力ではあったけれど、小説では宇宙、地球、人間の進化を短い間に体験させるというほとんど映像化不可能な非常に壮大な空間を描き出し、その果てにボーマンが神になったことを告げていた。描写力において、やはり映画は小説にはかなわないのかと思ったものである。

 本書にはたぶん予算的な問題で見送られたであろうシークエンス(ボーマンがスターゲイトを通り抜け、高度に発達した異星人の惑星に到着する)のシノプシスが収録されている。
 理解できない単語が並び、描かれている世界が今ひとつ頭の中で絵にできないもどかしさがあって、これが映像ならばという思いが何度もよぎった。

 久しぶりに「2001年宇宙の旅」の映画と小説を堪能したくなった。

     ◇

2000/11/29

 『未来映画術「2001年宇宙の旅」』(ピアーズ・ビゾニー/浜野保樹・門馬淳子 訳/晶文社)

 アーサー・C・クラーク版の〈メイキング・オブ・「2001年宇宙の旅」〉というべき「失われた宇宙の旅2001」を読んでから、もう一度小説と映画をあたろうと(郷里からちゃんと文庫本を持ってきたし、部屋のどこかにはコピーしたビデオテープがあるはずだ)思っていたにもかかわらず、まったく行動していない。
 あれから数ヶ月過ぎて、図書館で本書を発見した。当時のデザイン、設計図、未使用カット、絵コンテ、イラストのほかにポスターや写真などが掲載されている大判の本書は前から読みたかったものだ。

 秘密主義、完璧主義のキューブリックのこと、その製作過程は多くの謎に包まれていたという。そんな状況のもと数々の関係者に取材して製作の現場に迫ろうとしたのが『未来映画術「2001年宇宙の旅」』である。
 著者が1968年に公開された「2001年宇宙の旅」を観たのが9歳のときだった。感想を訊ねる両親に対して、この難解な映画について「理解する必要なんてない。ただ見ていればいいんだ」と答えたのは何とも頼もしい。僕も同じ意見なのだが、9歳でそう感じたというのだからすごい。

 長く語り継がれる優れたSF映画を撮りたいというキューブリックは(まさしくそのとおりになったわけだが)、クラークと徹底的にミーティングを重ねた。 月面に存在していた謎の物体を発見し、何者かに送る信号装置を作動させた人間を描いたクラークの短編「前哨」を原案に映画用のいくつものシノプシスを書いた。それをキューブリックは、映像化し、クラークは小説化した。だから映画のクレジットタイトル(シナリオはキューブリックが先で、クラークが後に続く。小説本では逆にクラーク、キューブリックの順になる(と書かれているのだけど、文庫本にはキューブリックの表記はない。少なくとも僕が持っている本には)。

 キューブリックは製作にあたり、さまざまなSF映画のフィルムを取り寄せた。日本映画も、とあるから本多・円谷作品も観ているのだろう。
 本書を読んで初めて知ったのだが、特殊撮影に関してもキューブリックがしっかり指揮をとっていて、有名なダグラス・トランブルはスタッフの一員でしかない。特撮スタッフの一部は「サンダーバード」の(アンダーソン夫妻の)プロダクションから引き抜いているという。最初美術を手塚治虫に依頼した件もでてくるかと思ったがそれはなし。
 「2001年宇宙の旅」のメイキングというと、どうしてもミニチュアを使った特殊撮影の裏側を知りたいという気持ちが先立つ。しかし、俳優を使った部分でもカメラアングル等に神経を使って宇宙のシーンを撮影していたことがわかる。スクリーン上では当たり前過ぎてうっかり見過ごしてしまうカットである。

 オープニングに登場する類猿人の造型は今みても〈リアルという点〉においてまったくもって素晴らしい出来である。にもかかわららず同時期公開の「猿の惑星」にアカデミー賞最優秀メイクアップ賞が贈られたことに対してキューブリックをはじめとしたスタッフが憤慨したのはよくわかる(結局「2001年宇宙の旅」は最優秀視覚効果賞しかとれなかった)。
 公開時、あの<スターゲート>の光の乱舞シーンが麻薬でトリップした若者たちに歓迎されたというのもいかにも時代を感じさせる出来事だ。

 来年はいよいよ2001年。それを記念して「2001年宇宙の旅」がリバイバルロードショーされるのだろうか?
 絶対観に行くけれど、その前にビデオを借りよう。もう我慢できない。

     ◇

2001/04/21

 「2001年宇宙の旅 新世紀特別版」(ル・テアトル銀座)  

 昨年、アーサー・C・クラークの〈メイキング・オブ2001年宇宙の旅〉ともいうべき「失われた宇宙の旅2001」(ハヤカワ文庫) を読んでから時期が時期だけに「2001年宇宙の旅」がマイブームになっていた。もちろん映画はこれまでにTVやビデオで観ているし、83年の何度目かのリバイバルの際は新宿プラザのスクリーンで感動を新たにしたものだ。  

 21世紀をむかえるにあたって、この映画を避けて通れないだろう。関連書籍をあたりビデオをレンタルしたりしていたが、やはり「2001年宇宙の旅」は大スクリーンで鑑賞したい。  
 話題性もあることだから、2001年には どこかでリバイバル上映されるだろうと思っていたら、案の定春に公開というニュース!それもかつてシネラマで有名だったテアトル東京の跡地にできた劇場での公開と聞いて胸躍らせた。  
 記事にはシネラマでの上映を検討中とあったので喜び勇んで出かけたらサイズは従来と変わらず、後でポスターを確認すると新世紀特別版 デジタル・リミックス・サウンド、スコープ・サイズ〔70mm再現比率〕とある。
 ちなみに劇場内にはディスカバリー号の1/100サイズのミニチュアや公開当時のポスターが展示されていた。ポスターの表記はスタンリー・カブリック。当時カブリックと呼ばれていたことはずいぶん前にキューブリック特集本の和田誠の文章〈カブリックの頃〉を読んで知っていたが、いざその証拠を示されると笑ってしまう。  
 この特集本「イメージフォーラム増刊 :KUBRICK:」(88年)の別のコーナーではやがて来る2001年に行われる架空の「2001年宇宙の旅」公開の模様が書かれており、初公開以来のシネラマで上映とある。そのイメージが頭のどこかにインプットされていたのだろう。シネラマでなかったのは残念だったが映像は驚くほど鮮明でわかりきったことなのに改めてキューブリックの色使いに惚れ惚れしてしまった。  

 この映画の日本での初公開は1968年。僕が小学3年の時である。当時、SF映画の傑作として有名だった(というか僕自身が知っていた)のは「猿の惑星」「ミクロの決死圏」で、どういうわけか「2001年宇宙の旅」の存在を知ったのはずいぶん後になってからのことだった。
 「恐竜グワンジ」「恐竜100万年」の特撮に「まるで本物だ!」と驚愕した僕が、もし当時この映画を劇場の大スクリーンで観ていたらいったいどんな影響を受けていたか計り知れない。内容は別にしてその映像が人々にショックを与えたことは83年のリバイバル時も、そして21世紀の今も十分理解できる。

 ボーマン船長がコンピュータ・HALの知能機能を切断するくだりは「ハンニバル」の〈最期の晩餐〉シーンとイメージが重なった。
 ボーマン船長がチップを抜き取るごとにHALの知能が退化していき、しまいに歌をうたいだす。小説の「ハンニバル」でもレクター博士に前頭葉を削られるたびにクレンドラーは狂っていき、しまいに大声で歌いだす……。

     ◇

2001/05/02

 「2001年宇宙の旅」(アーサー・C・クラーク/伊藤典夫 訳/ハヤカワ文庫)  

 昨年再読しようと郷里から持ってきていたにもかかわらず、なかなか機会がなかった。劇場で映画を観てやっと本棚から取り出した。  

 83年のリバイバルを観た後、1年後くらい経って原作を買ったのだから約17年ぶりの読書になるのだが、記憶というものがこれほど当てにならないものなのか、これまで以上に痛感した。  
 昨年6月にクラークの「失われた宇宙の旅2001」を読んだ際、僕は次のように感想を記した。
     ▽
 主人公・ボーマン船長がスターゲートを飛び越えるシーンを映画では光の洪水といった感じで描写し、かなりの迫力ではあったけれど、小説では宇宙、地球、人間の進化を短い間に体験させるというほとんど映像化不可能な非常に壮大な空間を描き出し、その果てにボーマンが神になったことを告げていた。描写力において、やはり映画は小説にはかなわないのかと思ったものである。
     △
 問題はスターゲートを飛び越える場面である。
 今回一番楽しみにしていたのもこの部分で、いつ〈宇宙、地球、人間の進化を短い間に体験させる〉くだりがでてくるか胸ときめかせていた。
 が、ないのである。スターゲートを飛び越える描写はもちろん詳細で思い描く映像は映画の比ではないのだが、宇宙や地球、人間の進化に触れる文章なんてない。何度も読み返してみたが、それっぽい文章も見当たらない。
 そんなバカな! 17年前確かに同じ感想を日記に綴ったはずだと昔のノートをとりだしてみたら〈雄大で奥深く神秘的〉と書いてあるだけで進化のシの字もない。じゃあ、オレが思い続けてきたイメージはなんだったのか。まったく狐に化かされた気分だ。
 コンピューター・HALによる反乱のサスペンスは映画の方が上とあり、これは今回も同印象。

 21世紀を迎えた今、「2001年」の映画と小説に触れてみて一番感じるのは、インターネットの隆盛をまったく予測できなかったのだなということ。60年代にインターネットの概念があったのかどうかを確かめてみたい気もする。




 昨晩、地元シネコンのレイトショーで「関ケ原」を鑑賞。
 天下分け目の戦いが、たった6時間で決着がついていたなんて! オレは学校で何を学んだのだ?

 今日は「ダンケルク」を観ようと思っていたが、朝から少々体調が思わしくなく、部屋でじっとしていた。
 観たい映画はいっぱいあるというのに!

          * * *

2000/04/29

  「ハンニバル」(トマス・ハリス/高見浩 訳/新潮文庫)

 デビュー作「ブラックサンデー」以来、トマス・ハリスは超寡作作家で有名ある。二十数年の間に発表した作品はたったの3作。前作「羊たちの沈黙」からもすでに十年以上が経過していて、しかもなお現役、けっして過去の人になっていないところがすごい。

 トマス・ハリスの最高傑作(と信じている)「レッド・ドラゴン」に登場したレクター博士は次の「羊たちの沈黙」が映画化された際、アンソニー・ホプキンスが演じることによって、世界中の人々の決定的な印象を与えたと思う。ヨーロッパ的な優雅さと得体のしれない残虐さを併せ持つ斬新なキャラクター。原作(映画でも)のラストは逃亡したレクター博士が獲物を見つけ、雑踏の中に消えていくところで終わっていた。

 当然、続編に期待がかかるわけだが、これがなかなか書かれなかった。映画化されてからも10年近く、原作が発表されてからはそれ以上経っているのだ。
 映画情報誌のニュースで、トマス・ハリスが続編を書き終えたことは知っていたし、その映画化で、ジョディ・フォスターが主演をキャンセル、ジョナサン・デミ監督の降板等といろいろ聞こえてくるが肝心の小説の方がいつ日本で上梓されるのか全くわからなかった。
 書店の文庫コーナーで大量の本書の陳列を見た時は血が逆流する思いだった。

 「羊たちの沈黙」の続編はいったいどんな物語になるのか。それが第一の、そして最大の興味の的だった。
 レクター博士シリーズの完結編としてFBI行動科学課のクロフォード課長とレクター博士の3度目の対決がクライマックスになるのではと勝手に予想していたのだが、「ハンニバル」は過去2作と全く趣きの異なる作品になっていた。

 作者は怪物・レクター博士に対峙させるべくこれまたとんでもないキャラクターを創造した。それが大富豪のメイスン・ヴァージャーである。かつてレクターによって見るも無残な容貌、下半身麻痺にされた彼は恵まれない子どもたちに愛の手をさしのべているとみせて、その裏でいたぶり、その涙をマティーニに入れて飲むのを楽しみにするというレクターに負けない異常者だ。そんな彼が豊富な資金、人脈を使って、レクターへの復讐を画策する。レクターをおびきだす囮にFBI捜査官クラリスが利用されるというわけである。

 本作は怪物vs怪物の残酷小説とも、レクターとクラリスの究極の恋愛小説とも受け取れる。   
 冒頭からまるで映画化を前提にしたようなクラリス&SWATチームの麻薬密売団急襲のアクションが展開される。密売団の女ボスを射殺する決定的瞬間をTVクルーに撮られてしまったクラリスが窮地に陥ってしまう事件なのであるが、これがヨーロッパに潜伏していたレクターがまた表舞台に登場してくる伏線となるうまいプロローグとなっている。

 大ヒット映画「羊たちの沈黙」の影響からか、作者自身アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターをイメージしてレクターとクラリスを描写している印象を受けるのは気のせいか。
 思えば映画「羊たちの沈黙」で調査のため初めてクラリスが独房に収監されているレクターと対面した時のジョディ・フォスターの美しさにため息をついたものだ。
 だからこそクライマックスのほとんど映像化不可能なグロテスクなシーン以上にラストに描かれるふたりの愛欲の日々を映像としてこの目で確認してみたい。
 ジョディ・フォスターはオファーを断ってしまったのはとても残念なことであるが、「エイリアン」「ブレードランナー」のリドリー・スコットが「ハンニバル」をどう映像化してくれるのか。   
 読了した今、今度は映画化作品に興味津々な僕である。

     ◇

2001/04/12

 「ハンニバル」(丸の内ルーブル)

 今年一番の期待作。  
 早々と前売券も購入し、先週ロードショーされてからは大ヒットを告げるTVCFを目にするたびはやる気持ちを押さえ、やっと今日足を運んだ。劇場は映画サービスデーでないにもかかわらずそれも平日でほぼ満員の状態だった。大ヒットを実感した。  

 率直な感想は〈キレはあるけどコクがない!〉の一言。  
 ただ、これはトマス・ハリスの原作を読んでいるからで、映画の出来は及第点だろう。  
 前作「羊たちの沈黙」は映画を観てから原作を読んだのだが、小説世界を遜色なく映像化している印象を受けた。小説にはない映像的なアイディアを活かす完璧な映画化といえた。  
 しかし今回上下2冊の原作をそのまま映像化できるわけがなく、登場人物を整理し本筋部分のみをうまくまとめているという印象。
 リドリー・スコット流の華麗なカメラワークは映画の前半、イタリア・フレンチェのロケシーンで発揮され、絵画、建築、オペラ等ヨーロッパ文化の優雅さをうまく醸し出している。
 残念なのは、潜伏しているレクター博士(アンソニー・ホプキンス)をはじめ、イタリア人の刑事までがすべて英語で会話していたこと。レクターは流麗なイタリア語をしゃべり、英語訛りのイタリア語、イタリア語訛りの英語が錯綜しなければ意味がない。日本人観光客の日本語がよく聞こえたのは皮肉。  

 オープニングで繰り広げられるヒロイン・クラリス(ジュリアン・ムーア)をリーダーとするFBI・SWAT混成チームの麻薬犯との銃撃戦。赤子を抱いた女ボスを射殺し、その決定的瞬間を新聞に撮影され窮地に追いやられるクラリスの苦悩も彼女を何かと敵視し裏でFBI失脚へ手引きする司法省査察次官補・クレンドラーの非道さもあっさりしすぎている。
 
 かつてレクター博士によって顔の皮を剥がされ、下半身麻痺、見るも無残な姿にされた大富豪・メイスン・ヴァージャーの、レクターに対する復讐心以外に人格異常さを示すエピソードもほとんどない。(メイスンの奇怪な容貌は映画用にかなりアレンジされていたが蛇のような右目の無気味さが背筋を寒くさせてくれた)  
 この二人の悪人ぶりを徹底させないと、「羊たちの沈黙」と違って特異なヒーローになってヒロインを救う怪物レクターへの感情移入が中途半端になってしまう。だからクライマックス、レクターがふたりをそれぞれ死に至らしめるくだりでそれほどカタルシスが得られないのだ。  
 映像化不可能と思われた例のグロテスクな〈最期の晩餐〉シーンは最新の特撮技術でリアルに再現されかなりのインパクトではあったが、原作で驚愕したのは料理されることによって徐々に狂っていくクレンドラーの様子であり、それからすると物足りない。表現上の倫理的問題でもあったのだろうか。
 
 クラリスに対するレクターの異常とも思える執着も、レクターの過去、幼い頃ナチの手で無残に殺された妹への憧憬が描かれていないからもうひとつぴんとこない。原作にあったレクターとクラリスの〈究極の恋愛〉部分を削除してしまったので当然の結果ではあるのだが(個人的にはこの官能シーンをぜひとも観たかった)。
 
 小説とはあえて変えたラストは映画お得意の〈Ride to rescue〉を採り入れた。あと10分で警察がやってくる間にいかにしてレクターは屋敷から逃げ出すことができるかのサスペンスなのだが、これがまったく平凡な展開。「羊たちの沈黙」における息の詰まる逃亡劇に比べるとまるでとってつけたようなエピソードだった。続編を作れるように配慮したのだろう。
 トマス・ハリスが絶賛したというラストは小説の中盤にある旅客機のくだりをアレンジしたシーンを指しているのだ、たぶん。

 スチールで見る限りジュリアン・ムーアはミスキャストに思えた(この顔、僕はどうも苦手)が、映画の中ではそれほどの違和感はなかった。しかし、劇中で前作バッファロー・ビル事件に触れる会話になるとどうしてもジョディ・フォスターの容姿がかぶさってしまって困った。  
 だいたいラストを大幅に変更したこの映画にジョディ・フォスターの降板する理由がないではないか! 映画に対する一番の不満はやはりそこにつきる。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」(studio zero/蒼天社)
「僕たちの赤い鳥ものがたり 1978-79」(文芸社)
神保町で働いています。

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