全然新規のブログが書けない。
 続きものがいくつかあるのに手がつけられなくて、自分でもあせっている。

 昨日は、BC二十世紀の毎月恒例「日曜ぶらり寄席」。
 これまで一度も雨にたたられたことがなく(降っても、始まる前に止んでしまう)、出演の立川寸志さんに「晴れ男」の勲章を与えていたのに、今回は止む気配がなかった。
 ということで、これまで開演前は高座にあがる着物姿でチラシ姿にはげんでいた寸志さん、今回は私服で雨に濡れながらの呼び込みとなった。
 雨にもかかわらず、今回も20人を超える集客となった。常連さんも何名かいらっしゃていたけれど、ほとんどがフリの方。これはうれしい。
 1年やってきた「日曜ぶらり寄席」、なんとか定着した感じがする。
 4月はお休みして、特別企画としてGWの5月1日(月)、2日(火)、3日(水・祝)の3日連続で開催する。
 昨年の3日連続落語会が好評だったため、「日曜ぶらり寄席」が誕生したのだ。

 で、今年のGW最初のイベントの告知。またまたFBからの転載だ。

     ◇
 
 4月30日が何の日かご存知ですか?
 42年前、サイゴンが陥落したんですね。
 思えば、私の小学時代から中学時代にかけて、ベトナム戦争が行われていたんです。戦争といったら太平洋戦争のイメージで、教科書で習う遠い過去のもの、といった印象が強い中、リアルタイムで戦争が行われていました。
 太平洋戦争だって、自分が生まれる14年前のこと。当時は遠い昔の出来事でしたが、今でしたら(成人してから)つい最近ですよね、14年前なんて。

 さて、そんな4月30日、ベトナムにまつわるトークイベントが開催されます。
 ベトナムに興味ある方、帰ってきたウルトラマンファンの方、ぜひ足をお運びください。
 予約開始しました。
 きくちさん秘蔵の、ロケ現場で撮影したスナップ写真展も併せて開催します。


kikuchitalk
 これまた、FBからの転載です。

     ◇

 もうすぐ「キングコング:髑髏島の巨神」が公開されます。レジェンダリー版「キングコング対ゴジラ」につなげるための映画であれば、〈髑髏島の巨神〉ではなく〈髑髏島の魔神〉にしてほしかったと往年の東宝特撮映画ファンとしては思います。
 また、この映画、ウルトラマン(初代)の「怪獣無法地帯」のキングコング版と言えますよね。まだ観てないから断言できないですが。
 
 それはともかく、書籍の方でも、特撮関連本が立て続けて出版されています。そんな書籍の出版を記念してブックカフェ二十世紀では4月28日(金)にトークライブを開催します。

 たとえば、ウルトラマン(シリーズ)ファンでも、世代によって、何をウルトラマン(の世界観)に求めるか、全然違いますからね。
 当日は、ひとつの世代論が展開されるのではないかと思っています。

 特撮ファンは要チェックですよ!

heiseitokusatsusedai




 FBからの転載です。

     ◇

 角川映画に吸収されて、今はもうなくなってしまったヘラルド映画ですが、個人的に思い入れがありますねぇ、はい。名前がなくなったことがとても残念でした。
 角川は大映映画もこの世から消してしまいました。

 最初の出会いは小学6年、「小さな恋のメロディ」でした。中学時代は「ジョニーは戦場へ行った」を観ました。高校時代は「悪魔のいけにえ」や「ひまわり」。
 大人向けアニメ映画〈アニメラマ〉を手塚治虫率いる虫プロに作らせた会社でもあります。第一弾「千夜一夜物語」、第二弾「クレオパトラ」。
 リアルタイムでは観ていません。高校時代にTVで「クレオパトラ」を観たのが最初です。その後、やはりTVで「千夜一夜物語」を観たのですが、私は「クレオパトラ」が面白かったですねぇ。第三弾「哀しみのベラドンナ」はずっと幻の映画でした。観たのは昨年、DVDでした。
 自殺未遂を起こした黒澤明がソ連で撮った「デルス・ウザーラ」も、観たのは数年前でした。図書館にDVDがあったんです。
 思えば「乱」が初めて劇場で鑑賞した黒澤映画なんですよ。
 ヘラルド映画はさまざまなジャンルの映画を配給しています。そんな仕事をまとめた本が出版され、その記念トークが開催されます。
 本の即売会もありますよ~!

herarudoeiga


 今日は本の紹介をさせてください。
 毎週月曜日の夜10時から日本テレビで「永遠の仔」が放送されています。今夜は3回めですが、天童荒太の原作は、昨年年末に発表された数々のミステリーベストテンで第1位を獲得しています。
 私はまったく内容を知らずに読んだのですが、「永遠の仔」はミステリというジャンルを超えて、これまでの私のオールタイムベストファイブに入ると言ってもいい、心が揺さぶられる小説でした。
 最近、ニュース等でいろいろ報道されている、児童虐待をテーマにしたとても重い内容の、最初は読み進むのがつらい小説です。

 親からの虐待でトラウマを持った1人の少女と2人の少年の精神病棟における、17年前の物語と、その後再会して事件に巻き込まれる3人の現在の現在の物語が交錯しながら、彼らがつらい現実にぶちあたりながら、なんとかトラウマを克服して生きていこうとする姿、生きていくことの尊厳を謳いあげた傑作だと私は思っています。

 最近は本でも映画でも泣けるということが1つのお薦めの意味を持っていて、どうにも納得がいきません。安易なお涙頂戴ものは昔から嫌悪の対象でした。何も感動だけに人は涙を流すわけではありませんから。悲しい現象にも涙を流すんですから。むしろその方が多いでしょう。
 ですから、泣けるということで、「永遠の仔」を紹介したくはないですが、後半は泣きどおしでした。それは目頭が熱く熱くなる、涙が頬を伝わるなんてものではなく、ほとんど号泣に近い。嗚咽を漏らしながら読んでました。

 想像してください。隣の部屋でカミさんと子どもが寝ている夜中、わんわん泣きながら本を読んでいるいい歳をした男の姿を。
 とにかく、後半は明日が仕事でもう寝なくてはと思いながらもやめられなくて、ほとんど一気に読んでしまいました。
 上下巻がそれぞれ約500ページあって、二段組ですが、ぜったい読んで損はしないと思います。
 ということで、今日はお薦めの本の紹介でした。

     ◇

【参考】

2000/02/07

 「永遠の仔」上下(天童荒太/幻冬舎)

 下巻を一気に読了した。
 ラスト近くになるにつれ3人の主人公たちの台詞の一つひとつが胸にしみた。涙腺がゆるみ、涙が頬をつたわり、鳴咽がもれ、終章になってやっと平静さをとりもどしたかに思えたら、ラスト3人が互いに励ましあうために言いあったという言葉を目にするにいたってまた大泣きだ。
 「マークスの山」の時も読書が深夜に及び、泣きながら読み終えたのであるが、あの時以上に魂が揺さぶられた。
 「永遠の仔」は昨年末に発表された数々のミステリベストテンで1位を獲得し、いったいどんな作品なのか注目していた。図書館に予約はしたが、人気が高くて当分借りられないだろうと思っていたら、割と早く連絡がきて驚いた。

 まさに現代を象徴する重いテーマである。親の児童虐待、育児放棄、裏切り。親の愛を受けられず、心を喪失した子どもたちの悲惨な毎日。裏切られ、傷つけられ、ねじまげられる幼い精神。それでも親に愛されたいと願う、切なく哀しい子ども心。
 ここに描かれていることはフィクションであるが、似たようなことはまぎれもなく現実に起こっていて、その犠牲者は確実に存在することを思うと何ともやりきれなくなる。

 トマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」には残虐非道な精神異常の殺人者が登場する。最初彼の犯罪に怒りを覚えるが、両親に虐待された生い立ちを知るにつれ、彼が犯罪に走るのも仕方ないかもしれないと同情してしまったことを思い出した。
 日本中を震撼させた神戸・酒鬼薔薇事件の加害者の少年、9年間少女を監禁したゲス野郎、小学生刺殺事件の犯人とおぼしき自殺した21歳の青年あるいはウサギを惨殺したり、小犬の足を切断して歓喜にしたっているであろう名もない人たちにも(どんな事情があろうとも、絶対彼らの犯罪は許されないけれど)精神を歪めた残酷な幼年、少年時代があったのだろうかと考えてしまうのだ。

 本作は少年少女時代のトラウマをかかえてもがき苦しみながら生きる3人の男女の過去と現在を交叉させながら、「いま生きているということ」の尊さを高らかに謳いあげた物語である。
 重たすぎるテーマだから上巻は読むのがつらかった。ミステリの要素がなかったら読み進められたかどうかわからない。しかし、下巻において少女のトラウマの原因が提示されてからは、3人が再会してから巻き込まれる殺人事件の解明なんてどうでもよくなってしまった。逆にラストですべての謎が解き明かされた時など、あまりの着地のよさに「現実はそんなものではないだろう」と不満を持つ始末だ。

 3人が出会った1979年と再会した1997年を季節の移り変わりとともに章立てで交互に描く。過去と現在が微妙に関連しあう構成が見事である。
 3人の過去を描いた部分は名作「スタンド・バイ・ミー」を彷彿させる。3人の少年少女たちが愛しくてたまらない。過去の体験が現在の生活に深くかかわってくると言う点では「スリーパーズ」か。安易に映画化なんてしてほしくないが、もし完璧に映像化できたとしたら、人間の尊厳に迫った深く重いテーマを持った名画が誕生するだろう。




 承前

 続いて、2000年代になってから観た、読んだ、映画や書籍のレビューをUPする。

     ◇

2000/07/13

 「ボーイズ・ドント・クライ」(渋谷シネマライズ)

 ミスターレディ(ニューハーフ)とともに〈おなべ〉がマスコミに登場して話題になったとき、どこから見ても男にしかみえない彼女たちの容姿に驚くと同時に、男らしさの中に〈女〉を感じて実によこしまな考えを夢想したものだ。
 アダルトビデオの企画の1つで、見るからに男らしい〈おなべ〉を最初はAV女優がインタビューし、徐々にノセて全裸にさせてから、ファックシーンにもっていき、本人にはわからない形でAV男優に交替して最後には女の喜びを感じさせるというもの。
 妖艶な女性よりどちらというと男、というか少年っぽい女性がある瞬間に女らしさを垣間見せた方がエロティシズムを感じてしまうのは僕だけだろうか。

 「ボーイズ・ドント・クライ」に興味を抱いたのは性同一性障害がどうのといった社会的問題に対する関心より、主演女優がどんな男っぷりを見せてくれるか、そこにどんなエロスを感じられるか、という不純な動機からだった。

 数年前、吉本多香美主演の「樹の上の草魚」を観た。
 薄井ゆうじの原作は男として育てられた両性具有の青年があるときを境に肉体的にも完全に女性に生れ変わり、変化に対する心の揺れ、幼なじみの友人との微妙な関係(友情から恋愛)を描いた透明感あふれるある種ファンタジーとも呼べる恋愛小説である。
 小説世界にとても感銘を受け、だからこそ映画化には不安を覚えながらも、本物の肉体を持つ女優が男と女をどう演じわけるのか興味津々だった。しかし当時ボーイッシュだった吉本多香美といえども、女性に変身する前の男役には無理があったといえる。全体から醸し出される雰囲気は明らかに女なのだ。
 トランスジェンダー、トランスセクシャルを扱う映画(ドラマ)はそれが実写でシリアスな場合、非常にむずかしい問題をはらんでいると思う。性転換あるいは女装、男装した主人公がまず〈絵として〉納得できる容姿をしていなければならない。
 この手の話はコメディーがお似合いなのかと思っていたら「ボーイズ・ドント・クライ」の主演女優(ヒラリー・スワンク)が本年度のアカデミー主演女優賞を受賞と知り、がぜん興味がわいた次第。

 映画は1993年アメリカのネブラスカで実際に起きた事件を題材にしている。ドラッグづけの若者たちの生態をロックをふんだんに挿入しながら描く手法は「トレインスポッティング」の影響をかなり感じる。
 性同一性障害の主人公が見知らぬ町で〈男として〉あるグループの男女と親しくなる。グループの中の女性と恋仲になるが、彼女が女だとわかるとまわりの連中は手のひらを返したように冷たくなる。中でも彼女を男だと信じていた男たちは裏切られた腹いせに彼女をレイプし、警察に被害届をだしたと知ると怒り狂って射殺してしまうのだ。
 ヒラリー・スワンクはオスカーを受賞しただけあって、ブランドン・ティーナという〈男〉を好演している。顔だけじゃなく身体つきまでそれっぽく見せるなんてさすが。彼女の存在なくしてはこの映画は成り立たなかっただろう。役作りの確かさにおいてもアメリカ映画は懐が深い。

 変な意味ではなく、映画の見所は主人公が怒り狂った男友だちに衣服を脱がされ、正体をばらされるところだ。男物のパンツを剥ぎ取られるとそこにははっきりとヘアだけが映しださる。姿形は男なのにやはり肉体は女であることが一瞬にわかり、そんなことはわかりきっているこちらも劇中の男たち同様衝撃を受けてしまう。ここに例のボカシが入ったら、映画のテーマがそれこそボカされてしまっただろう。
 この後、時間がとんで、レイプされた主人公が警察との取り調べで過去を回想することになるのだが、ここだけ回想形式になるのがわからない。実際の事件に取材しているのだから、時系列でエピソードをつないだ方が自然だと思うのだが。
 だまされた恋人がそれでも主人公を受け入れているというのに、最後に射殺され、部屋を貸していた(それも幼子をかかえた)何の罪のない女友だちまで殺されてしまうラストは何とも後味が悪い。

 観終わって、いろいろ考えさせられた。
 ゲイとかレズと違い、あくまで心は異性として同性を好きになる性同一性障害はやっかいな障害だと思う。精神的な病気はなってみないとその実状がわからないからなかなか一般には理解されない。 もし自分が精神は今のままで性別だけ変わったとしたらどう反応するか考えてみればいい。僕だったら1日や2日、期間限定だったら大いに楽しむが、一生となると気が狂うんじゃないかと思う。  
 ネブラスカという田舎町でなかったら、こんな惨劇も起きなかっただろう。
 実際、だまされたといえ、あまりに過剰反応する連中の気持ちがわからない。やっていることは何かと反体制的なのに、性に限っては保守的ということか。
 ラスト、一緒に逃避行をはかろうとする主人公に同意する恋人が部屋にもどり、支度している最中、迎えにきた主人公の髪型の変化に、ふと〈女〉を感じて一瞬躊躇してしまうシーンがある。微妙な女心が垣間見られ印象的なシーンとなっている。

 「ボーズ・ドント・クライ」というタイトルは挿入曲からとったものだとエンディングタイトルでわかった。


2000/08/02

 「性同一性障害 -性転換の朝」(吉永みち子/集英社新書)

 映画「ボーイズ・ドント・クライ」を観たからというわけでもないけれど川口中央図書館に行ったらまるで読めとばかりにおいてあったので借りてきた。
 妊娠中の女性が情緒不安定な場合、生れてくる子ども(男の子)がおかまになる確立が高い、と聞いたことがある。
 性同一性障害も胎児期の性決定メカニズムの狂いが原因とのことだが、どうしてそうなるのかはよくわかっていないらしい。
 「ボーイズ・ドント・クライ」の感想でTG、TSなんて言葉を使ったけれど、本質的な部分で何もわかっていない。
 TV(トランスヴェスタイト)は服装倒錯者、異性装嗜者を指す。TG(トランスジェンダー)は社会的に異性として扱われたい、だが性器まで変換しようとする意識は希薄という人たちを総称していう。それに対して心身ともに異性になりたいというのがTS(トランスセクシャル)だ。
 この世界も何かと奥が深い。

 性同一性障害という言葉が一般化したのは埼玉医大総合医科特別チームの性転換手術が認可されたことが大々的に報道されてからだと思う。それまで性転換手術は海外で行うのが常識だった。
 モロッコといえば名画「外人部隊」の舞台になったところとして有名だが、僕にとっては長い間性転換手術する国という認識だった。カルーセル麻紀の性転換手術はそれくらい小学生にはインパクトがあったのだ。
 なぜ日本で性転換手術がタブー視されていたのかも説明されている。
 昭和39年の〈ブルーボーイ事件〉が原因だという。3人のゲイボーイの睾丸の全摘出手術を執刀した町医者が優生保護法違反で検挙された事件だ。
 とにかく性同一性障害に苦しむ人たちに光明が射したことは確かなことであり、めでたいことではあるが、本書で取材されている数人の性同一性障害の男女が歩んできた足跡にはとてつもない苦労がしのばれる。
 誰もがカミングアウトしてショーパブで働けるわけではない。普通の人が普通の場所で静かに暮らしたいと考えるという方が当たり前なのだ。

 しかしいつも思うのだが、人はなぜこの手の人たちを白眼視するのだろう?
 子どもころ、手塚治虫「リボンの騎士」のアニメやコミックに夢中になった。ヒロイン・サファイアが自由に男になったり女になったりするのが楽しかった。手塚マンガにはこうした男装・女装のキャラクターが登場するものが多く、手塚マンガの特にそういう部分に興味を持っていた僕はたぶんに刷り込みもあるのだろう、〈おかま〉や〈おなべ〉あるいは性転換した人に対する偏見というものはない。
 大学1年のGWに彼女に会いに仙台に行ったときのことだ。上野駅で特急列車に乗ると、おかまの3人組が同じ席になって、意気投合した僕はまわりの冷たい視線は何のその、仙台まで大騒ぎしたものだった。リーダー(?)の名前は〈フジコ〉といった。「東京にもどったらお店に遊びに来てね」と仙台で別れてそのままになってしまったけれど、彼らともっと話しをしたかった。僕にはその気がないので、相手が〈性の相手〉として接してくれば頑なに拒む。が、いわゆる〈友だち〉としてだったらとことんつきあってもいいと思う。

 だから本書でも触れられている、映画「ボーイズ・ドント・クライ」の題材になったブランドン・ティーナ事件には暗澹たる気持ちにさせられる。
 実際の事件は映画以上に悲惨である。カミングアウトして自分の選択を堂々と主張、自信をもって男性として生きると宣言したティーナだったが、男友だちの怒りをかってしまった。男友だちはだまされていた悔しさ、性を変えるという行為への憎しみによってティーナを輪姦し殺害してしまった。 
 そんなに男どおしの友情って崇高なものなのか? 女から男に(あるい男から女に)なる行為はそんなに憎むべきことなのか?
 本書でも再三指摘されている〈第3の性〉というのをまじめに検討してもいいのではないだろうか。


2001/02/07

 「ブレンダと呼ばれた少年 ジョンズ・ホプキンス病院で何がおきたか(ジョン・コラピント/村井智之 訳/無名舎)

 吉永みち子の「性同一性障害 -性転換の朝」(集英社新書)の中で紹介している事件でもう一つ詳細を知りたくなったものがあった。
 8ヶ月の双子の兄弟の兄の方が包皮切除手術に失敗してペニスを喪失、動揺した両親は性科学の権威・ジョン・マネーの強い勧めで、この子を性転換させることにした。
 以後女の子として育てられたその子は順調に経過していると発表され、メディアはキンゼーレポート以来の偉大な発見と書き立てた。
 が、実態はまったく逆だった。成長するにつれ、次第に女性としての違和感を持ってきたその子は精神のバランスがとれないくらいに追いつめられ、苦悩し、暴れ、最終的に男性にもどったという。
 この事件を綿密な調査、取材でフォローしたレポートが「ブレンダと呼ばれた少年」だ。ブレンダとは少女時代の名前のこと。

 小説、マンガには男が女になってしまうという物語がある。ある日突然女になってとまどうが、やがて女の喜びを知るというパターンだ。〈性転換〉ものとでもいうのだろうか。
 薄井ゆうじの「樹の上の草魚」(講談社文庫)はこのパターン(プロット)をうまく文学に転化させ新しい恋愛小説を創造した。
 デイヴィッド・トーマスの「彼が彼女になったわけ」(法村里絵訳/角川文庫)は歯の治療で入院した青年が病院側のミスで性転換手術をされてしまう悲喜劇で、彼が女性になるために悪戦苦闘する姿をとおして、女性という生き物の内面的、外面的気苦労がわかる仕組みになっていた。
 驚いたのはこの手の小説をさかんに書き綴るマニアがいることで、作品を収集、発表している専門サイトも存在する。僕自身小学5、6年の頃、この手のマンガを描いたことがあり、興味ある世界だ。
 が、映画「ボーイズ・ドント・クライ」や前述の新書「性同一性障害」の項でも書いているとおり、これらに描かれていることはあくまでも虚構の世界、好事家が思い描くファンタジーでしかない(やおいの世界に通じるものがある)。実際に自分本来の性と違う身体になった場合、精神的苦痛は計り知れないものがあると思う。

 で、ジョン・マネーである。本書を読む限りマッド・サイエンティストとしか思えない彼は「性別の自己認識は環境的要因によって決まる」という理論を実践するため、幼児期にペニスを喪失した子を格好のモルモットにしたに過ぎない。
 面接時には研究のため年端のいかないブレンダに卑猥な言葉をあびせ、ポルノフィルムを見せる、ブレンダがいやがっても容赦しない。ブレンダが両親に訴えても博士を盲信する両親は聞く耳をもたない。ブレンダの真の叫びを聞かず、自分の研究に都合よく学会に発表する。
 女として育てられた〈少年〉はやがて思春期になると局部の整形<性転換>をすすめられる。
 間違えやすいのは〈少年〉は事故後にすぐに性転換させられたわけではないこと。ペニスを喪失した後は身体が成長するまで性器の整形はまたねばならず、定期的な女性ホルモン注入と服装、しぐさ等の矯正の育てられていたのである。
 博士に局部整形を勧められると〈少年〉は激しく抵抗する。両親もその他の医師もみな今後のことを考慮し〈少年〉に整形を勧めるのだ。ジョン・マネーに「NO」と言える者は誰もいない。
 八方塞になった〈少年〉は自殺を繰り返し、ようやく心の内を理解してもらうことができ、男性にもどる。人工のペニスを造型、今では結婚して幸せな人生を歩んでいるという。

 この本には幼児期から思春期にかけての〈少年〉の写真が掲載されている。女の子の格好はしているけれど僕には女性には見えなかった。写真でさえそうなのだから、一緒に生活していた親や診察にかかわった医師たちにはその違和感がもっとわかっていたはずだ。〈少年〉の自殺は未遂で終わったからよかったものの、もう少しで若い命を失うところだった。ジョン・マネーおよび彼に与した関係者たちはもしかしたら殺人者になっていたかもしれないのである。
 こんなデタラメな研究をしているジョン・マネーがこの事件以降も処罰の対象にならないばかりか権威が失墜しなかったというのが不思議。だいたいペニス喪失=女性化という論理がわからない。当時(1967年)の技術ではペニスの造型より膣の形成の方が容易だったと説明しているが、本人の承諾もなしに勝手に性を決めてしまう行為が許されてたまるものか。
 性同一性障害、半陰陽といった問題からかけ離れたところで性転換が議論されているから怒りがこみあげてくる。

 もうひとつ。これも大いなる、そして根本的な疑問なのだが、アメリカではなぜ幼児に包皮切除手術をするのだろうか。子どもの頃の包茎なんてあたりまえのことだし、手術しなければこんな問題も起きなかったはずだから。


2006/07/30

 「トランスアメリカ」(シネスイッチ銀座)

 樋口可南子のヘアヌード写真集以来、いつのまにか映画でもヘア解禁になっている。これは一般映画の描写においてとてもありがたいことだと思うことがある。
 性同一性障害を主人公にした映画では、2000年に公開された「ボーイズ・ドント・クライ」という実際に起きた悲惨な殺人事件を扱った作品がある。
 感想にも書いていることだが、外見上はまったくの男性なのに、身体は女性という事実を一瞬のうちにわからせるシーンに衝撃を受けた。ずばり主人公の股間を捉えたショットだ。このショットに、もしボカシが入っていたとしたら映画のテーマはそれこそぼやけてしまったことだろう。
 ありがたいと思うのはこういうときだ。
 大昔のことだけれど、アロン・ドロン主演「太陽はひとりぼっち」で、女性のヘアが描かれたボールペンが映されるところで、しっかりそこだけボカシが入ったらしい。あるコラムで読んで、映倫は何考えているんだと呆れたものだ。
 「太陽はひとりぼっち」、小学生5、6年だったか、映画は観たことないのに音楽が大好きで、放送部員になった際、給食の時間にレコードをかけまくっていたことがある。関係ないか。

 「トランスアメリカ」の主人公は「ボーイズ・ドント・クライ」とは逆の、心が女性の男性。それも中年の少々くたびれた外見を持つ。この主人公を女優(フェリシティ・ハフマン)が演じていることでこの映画に注目した。素顔は美貌なのに、メイクと演技(特に発声)でスクリーンの中では女装している男性に見えてくるから不思議。それも時間が経つにつれて魅力的になっていくのがニクい。ちょっと衣装のセンスやメイクを変えるだけなのに。
 最近企画の貧困で悪あがきをしていると感じないでもないアメリカ映画だけど、こういうメイクアップ技術は、役者の演技力を含めて、日本映画の数段上をいく。とうていかないそうもない。

 ロサンゼルスに住むブリー(フェリシティ・ハフマン)は性同一性障害を持つ男性で、普段は女装して女性として毎日を送っている。女性ホルモンで胸は人並みに膨らんでいるが、身体はまだ男性のまま。股間の膨らみはガードルでしっかり矯正する涙ぐましい努力を続けている。
 カウンセリングを受けながら性転換手術を心待ちにしているブリーに朗報が。数日後に手術が確定した。ところがそこに問題が起きた。かつてまだ外見的も男性だった頃にガールフレンドと関係を結んで出来た息子(ケヴィン・ゼガーズ)と会わなければならなくなったのだ。母親は急死している。過去を捨てたブリーにとってあまりに唐突で受け入れたくない事実。しかし、カウンセラーの勧めで、というか問題を解決しなければ手術を受けられないとあってはやらざるをえない。
 ニューヨークまで出かけ、窃盗罪で留置所に入っていた息子を保釈金(1ドル!)払って引き取った。もちろん正体は明かさない。教会から派遣されたボランティア女性と偽ってのことだ。引き取った息子をどうするか。養父のところへ連れていこうと一計を案じたブリー。
 こうして不思議な関係の父(母?)と息子の大陸横断の珍道中が始まった……。

 映画はいたるところに笑いの要素を入れ、音楽も多用、観客は軽い気持ちで観ていながら、親子の関係のあり方を考えることになる。

 冒頭でヘアにボカシが入らない現状について述べた。ただしそれはあくまでも女性のそれ。男性だったら当然〈男性自身〉が写り込むことになる。そういう場合、映倫はどう対処するのだろうか。素朴な疑問が解消された。答えはOK。
 ブリーと息子が車でロサンゼルスに向かう途中何度か野宿する。ブリーは小用のたびトイレットペーパー片手に藪の中に消えるのだが、ある時車のそばで済ます。しゃがんでスカートをたくし上げ放尿するやいなや、獣の鳴声か何かの音におののき思わず立ち上がってしまうのだ。そのまま普通の男性のように用をたして、その際しっかり〈男性自身〉が見え、息子に目撃されてしまうという展開。
 これには大笑い。その様がおかしいということもあるのだが、実際に演じているのが女優であるということがポイントだ。つまり〈男性自身〉は作り物。にもかかわらず実に良く出来ていて、それを右手(だったか?)でつまんで中腰で小用するところがいかにもってな感じに反応したのである。
 作り物だからボカシが入らないのかとも思えたが、もうひとつのシーンで確信に変わった。
 二人がヒッチハイクの青年を途中で同乗させる。とある湖畔(池? 沼?)でこの青年と息子が全裸になって泳ぐシーンで、青年が池からあがってこちらに振り向く際にそれは見えるのだ。まわりの女性の唾を飲み込む音が聞こえた。っていうのは嘘だけど。もしかしたらこういうのってすでに当たり前になっているのだろうか。

 珍道中の後に息子と養父の感動的、実は屈辱的な再会、ブリーの家族(両親と妹)との再会と続き、特に息子の、養父と過去が暴かれるくだりでは、いやおうなく現実を直視しなければならない。どんなふうにエンディングにもっていくかと興味津々で見守っていると、あっけなくやってきた。なるほど、そうきたか。
 「ボーイズ・ドント・クライ」のような、後頭部を重石でなぐりつけられたような、観終わって感情をかき乱される、深く考え込まされる内容ではない。コメディーでもないが、軽さ(笑い)の中に渋み、苦さがあって、それがいい。
「おもしろかったね」
「観てよかったね」
 劇場を出るとき、前を行く若い女性二人連れの会話にうなづいていた。




 書き忘れていたが、2月28日(火)の午後、新宿ピカデリーで「サバイバルファミリー」を観ている。
 3月になってからは、地元MOVIX川口で次の作品を観ている。
 7日(火) 「彼らが本気で編むときは、」
 12日(日) 「チア☆ダン 〜女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話〜」
 14日(火) 「相棒 劇場版Ⅳ」

 で、「彼らが本気で編むときは、」である。
 かつてこのブログに書いた文章を加筆訂正(一部削除)して、「まぐま」の手塚治虫特集に寄稿した。
 タイトルが長い。

     ◇

 トランスセクシャルと手塚マンガ  
 ジェンダー論なんてこむずかしい話ではなく、腐女子に人気なのがBLものなら、その対極には略称〈少年少女文庫〉あるいは〈強制女装〉ものがあり、少年が少女に変身(性転換)する過程に萌えるという文化には、その根っこに手塚マンガが大いに関係しているのだ! と、小学生時代「リボンの騎士」に夢中になった私が主張する経緯と理由


 もう8年前になるのか。
 フジテレビで日曜午後2時から放送されている「ザ・ノンフィクション」で「性同一性障害の恋人たち ~精神科診察室の物語~」を観たことがある。
 心が女性の男性とその逆の女性が、性転換手術を受けるために一緒にクリニックに通う日々を取材したものだ。割れ蓋に綴じ蓋。うまい具合にカップルができたものだと感心した。ネットの、その手のサークルで知り合ったという。
 好きな彼女がレズビアンで、女の子にしか興味がない、そこで、自分が女性になって恋愛を成就しようとする男性のブログがあった。彼女も応援してくれて、徐々に女性へと生まれ変わっていく、そんな日記が綴られていくのだが、フィクションだろうと睨んでいる。彼女がレズだから女になる、そんな男性の精神構造が信じられないからだ。
 このドキュメンタリーでは、男性、女性、性同一性障害の男性、女性、それぞれの脳のある一部のレントゲン写真を見せてくれた。確か人間の性を形づくる部分とか説明があった。驚いたことに、性同一性障害の男性と女性のそれがほとんど同じなのだ。
 性同一性障害の男性の両親は同世代。ここで考えてしまった。もし、自分の息子が「女になりたい」と言い出したらどう反応するだろうかと。うちは娘だから「私は男になりたい」と言われたらどうするか。環境とか育て方とかの問題ではない。脳の写真が証明している。明らかに疾患なのである。

 トランスセクシャル、今は〈TS〉という言葉で括られる事象に興味を持ったのは手塚治虫のマンガがきっかけだった。
 小学2年のとき、アニメ「リボンの騎士」に夢中になった。コミックスも揃えて何度も読み直した。
 サンケイ新聞に連載されていた「青いトリトン」(アニメ化で「海のトリトン」に改題)は、前半がトリトンの兄、和也の冒険譚だった。ある船にしのびこんだ(?)和也が船長の部屋をのぞくと、着替えをしていて、実は女ではないかと思わせるコマがあった。この何気ない絵に興奮した(コミックスにはこのカットがない)。
 隔週刊の少年チャンピオンに連載されていた「ザ・クレーター」では死んだ少女の心が、ある一定期間主人公の男の子にのりうつるというエピソードがあった。
 これら一連の描写にある種の感情が芽生えた。〈萌え〉なんて言葉は当時なかったが。
 同じチャンピオン連載の永井豪「あばしり一家」にも宇宙船から放たれた光線を浴びた吉三(あばしり家の三男)がみるみる女の子に性転換して右往左往するなんて回があった。「リボンの騎士」より直截的に肉体の変化を描いていて、少年の心がうずいた。
 そんな物語に影響されて男から女へ強制的に性転換手術させられるマンガを描いたことがある。小学5年だったか、6年だったか。かなりマセていた、というか、「お前何考えてるの?」と言われても仕方ない。

 それはともかく手塚マンガにはこの手の話が多い。
 「どろろ」の最終回でどろろが女の子であることが判明する。「ブラック・ジャック」にも卵巣を失った女性がブラックジャックの手術で男性に生まれ変わって生きていく話がある。
 驚愕したのは「ミッドナイト」の最終回だ。事故で再起不能となった主人公の脳が直物人間になった恋人に移植されるのだ。つまり主人公は女になって生きていくというわけで。
 性転換ものは今では一つのジャンルになっている。マンガだけでなく小説でも題材になっている。手塚マンガの影響とみていいのだろうか?




 先週、イベントが2日続けてあった。その関係で帰宅が遅くなった。
 そのほか、個人的に落ち込んだり、ふさぎ込みたくなりこともあって、その発散のため、ひとりカラオケに精出すことになる。先週は3日連続で歌広場のお世話になった。

 今週も一昨日、昨日と歌広場へ。
 新しい職場になって、サラリーマン時代と違い、毎日がとても楽しくなったのは確かだ。とはいえ、仕事だからまあいろいろある。その憂さを晴らすのがひとりカラオケだ。
 精神的におかしくなり、土日引きこもりになってからというもの、完全にカラオケから足が遠ざかっていたのだが、昨年あたりから一人で帰宅前に立ち寄るようになった。
 駅前の歌広場、きっかり1時間。ソフトドリンクのドリンクバーで、660円。無駄な時間を使いたくないから、前奏で、間奏で入力作業。歌い終わると、すぐの演奏停止。そこらへんの操作がうまくなった。

 約束の十二月
 そして僕は途方に暮れる
 六本木心中
 ベリーベリーストロング ~アイネクライネ
 ああ無情
 かんかん照り
 傘がない
 氷の世界
 桜三月散歩道
 ダンスはうまく踊れない
 ひらひら
 狼のブルース
 僕の唄はサヨナラだけ
 ジュリアに傷心
 ほおずき
 檸檬
 飛梅
 雨上がりの夜空に
 自由に歩いて愛して
 愚か者よ
 54日間待ちぼうけ
 ホテルカリフォルニア
 雨音はショパンの調べ
 ケンとメリー
 私は風

 こんな歌をとっかえひっかえしてうたっている。




2017/01/28

 「唐獅子株式会社」(小林信彦/フリースタイル)

 僕が小林信彦を読み始めたのは高校時代、キネマ旬報で「小林信彦のコラム」が始まってからだ。もちろん、中学時代は「オヨヨ大統領」シリーズが話題になっていて、高校時代は「唐獅子株式会社」がブームだった。とはいえ、それほど興味がなかった。
 中学時代に所属していた陸上部の同級生がさかんに「オヨヨ大統領」シリーズの面白さを吹聴してくれたのだが、NHK少年ドラマシリーズのドラマ化に幻滅していたので、原作を手にしようとは思わなかった。
 ところが、キネマ旬報のコラムがすこぶる面白い(なにしろ連載中に読者賞を2回受賞したほどだから)。大学時代に1冊にまとまり、すぐ購入した。ここから小林信彦のこの手の本を集めるようになった。
 コラムやエッセイ、評論集をすべて読破して、新潮文庫の小説をあたるようになった。その最初が「唐獅子株式会社」だったと思う。
 面白かった。笑った。こりゃ話題になるわと得心した。第3話「唐獅子生活革命」で組グループの社内報に掲載されたダーク荒巻の新マザーグース「誰が駒鳥いてもうた?」で、赤い鳥の「誰が鳥を」の元ネタを知った。後藤さん、そういうことだったのね!

 「スター・ウォーズ」と「レイダース」、「スーパーマン」のテーマ曲が似ていること。当時よく仲間と遊んだっけ。
「『スター・ウォーズ』のテーマ曲は?」
「(口ずさむ)」
「『レイダース』は?」
「……(何とか口ずさむ)」
「じゃあ、『スーパーマン』!」
「(わけがわからなくなる)」
 
 このシリーズは、70年代後半から80年代前半、日本がバブルに突入する寸前までの文化、風俗が描かれていて、それが、著者一流のギャグに結びついている。当時を知っていれば、大笑い間違いなしだ。若い人はどう思うのだろうか?

 これまで「唐獅子株式会社」は2度映画化されている。1983年と1999年。
 小説が話題になって、映画化希望の話が次々と版元に押し寄せた。前田陽一監督、岡本喜八監督、長谷川和彦監督。
 松竹の前田陽一監督が特に熱心だったが、会社が反対してポシャった。長谷川監督も映画化に積極的だったが、いつのまにか「太陽を盗んだ男」にシフトしてしまい、著者を呆れさせた。最終的に岡本喜八監督に映画化権を2年間預けることになった。
 そこらへんの顛末は、「小林信彦のコラム」に書いていて、最初にまとめられた「地獄の観光船 コラム101」(集英社)に収録されている。

 「小林信彦のコラム」の書籍化第二弾は筑摩書房から「コラムは笑う エンタテインメント評判記1983〜88」と改題されて出版された。集英社文庫になっていた(で、絶版になっていた?)「地獄の観光船 コラム101」は「コラムは踊る エンタテイメント評判記1977〜81」となってちくま文庫に入った。「地獄の観光船」以降、シリーズとして出版された「地獄の映画館」(76年以前の映画に関するコラムがまとめられていた)は、「コラムは歌う エンタテインメント評判記1960〜63」と改題されてやはりちくま文庫の1冊になった。
 以降、筑摩書房から「コラム」シリーズが刊行されることになる。

 「コラムは笑う」には125のコラムが収録されているのだが、2つめのコラムが「唐獅子株式会社」映画化にまつわる話題だった。
 前田陽一監督が松竹で映画化を試みた際に、脚本を担当した某が映画雑誌に「なぜ映画が挫折したのか」と恨み節を綴っていて、その反論になっていた。挫折の理由「会社が悪い、原作者が悪い、外野が悪い」のうちの、〈原作者が悪い〉に反駁したのである。
 某は著者からのクレームがあったと書いている。
「私の原作は、チンピラライターが手がけるものでありません。書くなら東映の大御所K・K氏か、テレビの巨匠S・K氏のような人にお願いします」
 K・K氏は笠原和夫 S・K氏は倉本聰のこと。
 こんな言葉をいつ、どこで、ぼくが吐いたのか! と激しく怒りながら検証し、結局、某が書いたことは、デタラメ、捏造、虚偽、甘え、非礼、であり、すべてを他人のせいにして、自分の才能を疑うことがない、自称脚本家と罵倒する。
 著者の筆誅の激しさを思い知らされた。

 この項続く




 皆さんは「京のぶぶづけ」をご存知でしょうか?
 「京のぶぶづけ」とは京都のお茶漬けのことで、「ぶぶづけをいかがですか?」と言われることは「帰ってください」という意味だそうです。

 ある本に書かれていたことですが、五木寛之がこの「京のぶぶづけ」の風習をおくゆかしい高級な文化と持ち上げているそうです。
 五木寛之との対談か何かのゲストに(京都の)一流料亭の女将をゲストに呼ぼうとしたところ「そんな器ではない」と丁寧にきっぱりと断れたそうです。
 だったら仕方ないと諦めてそのままにしていたら、半年後、女将が気分を害していると人づてに聞きました。

 実は京都の慣習として、依頼に対して最初に断るのはマナーなのだそうです。再度の依頼も断ります。で、三度めでやっと了解するといいます。
 五木寛之は、こうしたやりとりに驚きつつも「京のぶぶづけ」に結びつけて肯定するわけなんですが、このエッセイを読んだ某大学教授が反論します。
 言葉を信じない文化の頂点が高級なわけがないと、「野蛮な文化じゃないか!」と否定するのです。

 私もこの教授の意見に大賛成です。
 思ったことを言って相手を傷つける、不愉快にさせることはよくあります(あるいはその逆も)。かといって、言葉の裏読みばかりするなんてエネルギーの無駄使い、愚の骨頂だと思います。
 これはプライベートでも仕事でもいえることで、こういうことに関しては、自分は外国人になってしまい、「イエス、ノーをはっきりしてもらいたい」と言いたくなります。

 皆さんはどうお考えでしょうか?

     ◇

 【参考】

2000/09/22

 「私の嫌いな10の言葉」(中島義道/新潮社)

 羽田図書館の新刊コーナーにあった。著者は現在電気通信大学教授(専門はドイツ哲学)。プロフィールを見るとこれまでに何冊もの著書を上梓しているが僕はまったく知らない人。タイトルに惹かれて借りてきた。
 これがもし「私の好きな10の言葉」だったら絶対見向きもしないだろう。〈嫌いな10の言葉〉に日頃僕自身が使ってしまうものもあって不安半分、でももしかしたらこの著者と相通じるものがあるかもしれないと思った。
 著者が毛嫌いする〈親身になって相手のことを考え忠告する言葉〉を章タイトルにして世の中に跋扈している偽善的考え、無意味な行為を豊富な例をあげながら糾弾していく。
 著者が嫌いな言葉としてあげ、章タイトルになっているのは次のとおり。

 相手の気持ちを考えろよ!
 ひとりで生きているんじゃないからな!
 おまえのためを思っていっているんだぞ!
 もっと素直になれよ!
 一度頭を下げれば済むことじゃないか!
 誤れよ!
 弁解するな!
 胸に手をあててよく考えてみろ!
 みんなが厭な気分になるじゃないか!
 自分の好きなことがかならず何かあるはずだ!

 単なる皮肉、受けを狙ったへそ曲がり論、人と違ったことを言って優越感に浸るものだったら、自分の〈読み〉がはずれたというだけで、本をまた図書館に返却するだけだが、思ったとおり最初からぐっと僕の心はをつかまれてしまった。

 中野翠のコラムを例にあげ、彼女の卓抜なユーモアを賞賛する。
 笑う哲学者・土屋賢二の〈笑い〉がちっともおかしくないという指摘もわが意を得たりの心境。(僕も週刊文春連載の土屋氏のコラムを開始当時読んで、どこがおもしろいのかわからなかった。)

 著者は言葉の裏読みを極端に嫌う。
 五木寛之のエッセイにでてくるエピソードで「京のぶぶづけ」を無条件にもちあげているそうだ。 
 五木寛之との対談か何かのゲストに一流料亭の女将をゲストに呼ぼうとしたところそんな器ではないと丁寧にきっぱりと断られた。だったら仕方ないと諦めてそのままにしていたら半年後、女将が気分を害していると人づてに聞いた。実は京都の慣習として、依頼に対して最初に断るのはマナーなのだと。再度の依頼も断る。そして三度目でやっと了解するという。
 有名な「ぶぶづけ(お茶漬け)をいかがですか?」は「帰ってください」という意味で、五木寛之はそんな慣習を肯定するのに対して、言葉を信じない文化の頂点が高級なわけはない、と「野蛮な文化じゃないか」と著者はいきまくのである。
 僕もまったくそのとおりだと思う。思ったことを言って相手を傷つけることはよくある。かといって言葉の裏読みばかりするなんてエネルギーを無駄に消費するだけ。イエス、ノーをはっきりしてもらいたい。

 もうひとつ著者自身が経験したエピソードで特に共鳴したものがある。
 奥さんとのことで、ある日自宅に友人たちを招待して大いに盛り上った。友人たちが帰った後、なぜか奥さんがブスっとしている。理由を訊くと「どうしてあんなことを言うの?」と非難される。会話の中で友人に対して奥さんがさる有名な哲学者を知らないと著者の言った言葉にカチンときたらしい。「知らないから知らないと言ったっだけだ。別に知らないことをバカにしたわけではない」と説明しても奥さんの機嫌は直らない。
 僕もこれと同じような喧嘩を何度もカミサンと繰り返している。こちらの何気ない言葉に過敏に反応する。いや、反応するならするでいい。その場で指摘すればいいのに、そういうことは何も言わず、一週間くらいダンマリを決め込む。そんな毎日に耐え切れなくなって、「何を怒っているんだよ?」と訊くと「わからないの?」と驚く。こちらの鈍感さを憂う。
 こちらの発した言葉に対して傷ついたのならそのときにそう言ってくれればいい。こちらはそんな気持ちなんて持っていないのだから。ところが傷ついたことをわかったこととして相手は黙り込むから始末に悪い。著者はそこを嘆くのだ。
 その他、かずかずのエピソードが紹介され、そのたび怒り心頭、ときには行動で示すこともあって、「よくもそこまで」と感心したりあきれたり。
 もちろん書いていることの100%を支持するわけではないけれど、読んでいて痛快な気分になれる。




 そうか、会社を辞めてもう1年経つのか。今になって気がついた。
 5年前は孤独感に苛まれていた。
 今もひとりぼっちだけど、そんな環境を楽しんでいるところがある。
 斉藤和義「ベリー・ベリー・ストロング」に涙がにじむなんてオレぐらいのものだろう。

          * * *

2017/01/19

 「ウルトラマンの飛翔」(白石雅彦/双葉社)
 
 第一期ウルトラシリーズを作品ごとに製作観点から検証するというシリーズ第2弾。
 金城哲夫の家族を語るくだりでは涙が滲んだ。
(追記します)

2017/01/20

 「高田文夫の大衆芸能図鑑」(高田文夫/小学館)

 積読本が溜まりすぎて、この1年間はそんな必要なんてないのだが、久しぶりに図書館で借りてきた。


2017/01/21

 「怪獣秘蔵写真集 造形師村瀬継蔵」(村瀬継蔵/洋泉社)

 こういう本は、気が向いたときにチラチラと眺めればいい。幸せになれる。


2017/01/22

 「小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏」(小林信彦・萩本欽一/集英社文庫)

 単行本が出たときに真っ先に買って読んでいる。そのときの感想でも書いているのだが、藤山寛美、植木等、横山やすし、伊東四朗、渥美清に続いて欽ちゃんを書いてほしかったのだ。
一度欽ちゃんをモデルにした短編を書いているのだから、ずっと願っていたのだが、単行本が出たときに諦めた。


2017/01/28

 「唐獅子株式会社」(小林信彦/フリースタイル)
 

2017/01/30

 「ウルトラマンの現場 ~スタッフ・キャストのアルバムから~」(小学館)

 「ウルトラマンの飛翔」を読んでいたことで、より深くスナップの一枚一枚が愛おしく感じられた。




プロフィール

kei

Author:kei
新井啓介
ライターの・ようなもの
私家本「僕たちの赤い鳥ものがたり」
まぐまPB「夕景工房 小説と映画のあいだに」

神保町のブックカフェ二十世紀で働いています。遊びにきてください。

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